愛と悲しみの大奥物語|歴史秘話ヒストリア

NHK総合テレビの「歴史秘話ヒストリア」で愛と悲しみの大奥物語が放送されました。

 

大奥のトップをねらえ!

大奥は当時の女子にとって憧れの職場。武士の娘から庶民の娘まで実に様々な女の子がツテを頼ってやってきました。試験ではまず書道や裁縫の腕前を提出物でチェック。さらに器量を見る面接が行われます。将軍家に仕える女中なので、審査基準もハイレベル。大奥勤めはとても狭き門でした。みよ、後に絵島(えじま)という名で大奥のトップになることになる女性は美人で頭も良く、何より機転がきいたと言われています。

大奥とは江戸城本丸にあった将軍の正室や側室たちの住まいです。幕府が政治を行う表、将軍が生活する中奥、そして将軍の家族のためのプライベートな空間として一番奥に作られたのが大奥です。広さは約2万㎡。ここに身の回りの世話をする奥女中たち1000人以上が住み込みで働いていました。

みよは貧しい御家人の娘でした。御鈴廊下とは中奥と大奥を繋ぐ将軍専用の通路。着飾った女性たちが手をついて将軍様をお出迎えするというイメージがありますが、最新の研究では御鈴廊下の幅は2.7m。女性たちがズラリと並ぶには少し窮屈です。廊下はあくまでも通行のためのもの。お迎えの挨拶は大奥内の座敷に入ってからだったと考えられています。

御台所(みだいどころ)とは将軍の正室のこと。御台所は1日に5回もお召し変えをされたそうです。そのため着物代に年間15億円もかかったと言います。

大奥では上司に気に入られることが一番大事でした。というのも大奥は仕事によって細かくランク分けされたピラミッド型組織で、上司に評価されて上に上がれば上がる程お給料も待遇もぐんぐんアップしていく仕組みだったからです。呉服之間に勤める女性の年収は約800万円。これは普通の侍よりも上でした。御次に勤める女中の年収は1000万円。そしてトップの御年寄になれば年収は3000万円。300坪の屋敷までもらえました。大奥は女たちの出世競争の場でもありました。

みよは御使番(おつかいばん)からのスタートでした。御使番とは大奥の受付窓口。大奥に入ってくる品々をチェックしたり、注文をとりにきた商人たちに応対したりするのが仕事でした。みよの仕事ぶりは素晴らしく記録によれば、どんな事態でも慌てず落ち着いて問題を解決したと言います。上司のおぼえめでたく異例のスピードで出世していきました。

大奥に入って5年目の29歳の時、みよに運命の出会いが訪れました。出産を控えた六代将軍・家宣の側室お喜世の方(月光院)のお付きに大抜擢されたのです。将軍家のお世継ぎを守り育てるという大奥で最も重要な仕事を任されました。月光院はみよと同じく元は女中でした。年齢も近く共に和歌をよむことが大好きだったという2人。絆はだんだんと深まっていきました。しかし、その一方で大奥での暮らしは言いようのない息苦しさに満ちたものでもありました。

大奥では嫉妬や嫌がらせは当たり前でした。すそを踏んで転ばせるなど可愛い方で、相手の根も葉もない悪い噂を流したり、食事に毒を盛ったりなんてことも。出世することは他人を蹴落とすことでもありました。悩むみよに月光院は「そなたは月になりなさい。月は人の思いに関わらず全てを明るく照らしてくれます。そなたも妬みや嫉みにかまわず、みなをそっと優しく照らす月になれば良いのです」とアドバイスしました。

「さやけさの 光をそふる秋かぜに 雲のちりさへ なかそらの月」(月光院)

秋風が吹いて雲がちると空には月が美しく輝いている。みよには暗い雲を吹き飛ばし、いつも明るい笑顔でいてほしい。そんな願いを込めたのかもしれません。

宝永6年(1709年)7月、月光院は無事出産。世継ぎとなる男の子が生まれ、みよは我が事のように喜びました。やがて、その子はわずか4歳で将軍の座に(7代将軍・家継)月光院は将軍の母として大奥の中で大きな力を持つようになりました。みよは絵島(えじま)という名を新たに授けられ大奥トップの役職・御年寄に引き立てられました。ところが、のぼりゆく月光院たちを快く思わない者がいました。正室の天英院です。彼女は京の公家出身で将軍との間に生まれた2人の子は早くに亡くなっていました。

 

大奥 女たちの戦い

この頃、大奥には月光院について良からぬ噂が流れていました。何と月光院が将軍の側近と恋愛関係にあるというのです。正徳4年(1714年)1月、絵島は奥女中たち5名ほどをともなって将軍家の菩提寺・増上寺に出かけました。正室や側室の代わりに歴代将軍のお墓参りをする代参のためです。境内の墓所でつつがなく参拝をすませた一行は帰り道に芝居見物をしました。女中たちのお目当ては生島新五郎(いくしましんごろう)当時大人気だったイケメン歌舞伎役者です。芝居の後には生島新五郎たち歌舞伎役者たちも加わって接待の宴が開かれました。奥女中たちは久しぶりの外出を大いに満喫しました。しかし、このとき絵島はささいなミスを犯してしまいました。宴の席につい長居してしまったのか、あるいは帰り道で何かトラブルがあったのか江戸城の門限にわずかに遅れてしまったのです。この遅刻が大奥最大のスキャンダルに発展するとはこの時の絵島には知る由もありませんでした。

芝居見物の3週間後、事態は思わぬ展開をむかえました。絵島は突如役人から呼び出しを受けたのです。申し渡されたのは門限破りを理由とした大奥追放。おって取り調べが始まるまで謹慎を命じられました。

 

こうして私は悪女となった

絵島が謹慎している間に事件の関係者の取り調べがすすめられました。呼び出されたのは芝居の後の宴に同席した歌舞伎役者たちです。ところが、このとき役者たちが追及されたのは絵島の門限破りについてではありませんでした。疑われたのは絵島と生島新五郎の男女の仲。奥女中にとって恋愛はご法度。もしこれが事実であれば大奥始まって以来の一大スキャンダルです。尋問は熾烈を極めました。生島新五郎は激しい拷問にかけられ、絵島と情を通じていたとありもしない事実を認めてしまいました。続いて絵島の取り調べが始まりました。取り調べは連日連夜、絵島に一睡も許さず続けられました。心の支えとなったのは月光院と過ごした日々のことでした。月光院もまた絵島を守るべく老中たちへ懸命の説得を続けていました。

そして絵島に下された判決は遠流。江戸から遠く離れた土地に流し、生きては二度と帰さぬ刑です。極めて厳しい処分でしたが、生島との密通という罪には問われなかったのです。絵島は静かに判決を受け入れました。心残りは月光院に一目会ってお詫びできなかったこと。この時よんだ歌が残されています。

「浮世にはまた帰らめや 武蔵野の 月の光の影もはずかし」

大奥にはもう帰ることはできないでしょう。月の光のように自分を照らしてくれた月光院様にただただ申し訳なく思います。

こうして絵島は大奥という舞台を去りました。しかし彼女の凛とした生き方の物語には、さらなる続きがありました。

絵島が流されたのは信州・高遠。ここに絵島が過ごした屋敷が復元されています。与えられたのは小さな8畳間の一室のみ。周囲には格子戸がめぐらされ屋敷の外に出ることは許されませんでした。

「大奥で見聞きしたことは決して外へもらしてはならない」

筆や紙は与えられず、言葉を交わせるのも身の回りの世話をする下女だけに限られました。絵島はこの地で27年の時を過ごした後、その生涯を閉じました。享年61。絵島の死後、幕府の役人が高遠に派遣され、生前の様子について聞き取りが行われました。その記録の中にはこんなやりとりが残されています。

「絵島は江戸でのことを何か話さなかったか」
「付け置いた下女が申すには、そのようなことは一切なく心静かに過ごしていたそうにございます」




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