島津斉彬の人材育成術|知恵泉

NHK・Eテレの「先人たちの底力 知恵泉」で変人こそが国の宝 島津斉彬の人材育成術が放送されました。慶応3年(1867年)260年以上続いた徳川幕府が倒れ、新しい時代の幕が上がりました。明治維新と呼ばれる歴史上の大転換を支えたのは英雄たち。西郷隆盛、大久保利通、坂本龍馬、高杉晋作など。幕末、なぜこれほど多才な若者たちが次々と現れたのでしょうか?そこには来るべき時代をみすえ教育に力を注いだ指導者たちの存在がありました。人材の宝庫と言われた薩摩藩で西郷たちを育て上げたのが島津斉彬(しまづなりあきら)です。

 

名君誕生の舞台裏

文化6年(1809年)9月28日、島津斉彬は薩摩藩主・斉興の嫡男として江戸の薩摩藩邸で生まれました。幼い頃から利発で11歳の頃、すでに四書五経をそらんじ、和歌や茶道にも習熟。薩摩の示現流による剣術や荻野流の砲術も極めた文武両道の若者でした。20歳を過ぎる頃には幕府閣僚の間でもその才覚が注目され、外様大名でなければ老中として国政を任せたい人物と言われたほどでした。ところが島津斉彬は老中どころが40歳を過ぎても薩摩藩主にさえなれませんでした。父である斉興が斉彬に藩主の座を譲ろうとしなかったためです。父が懸念したのは斉彬の西洋文化への傾倒。オランダかぶれと揶揄されるほど舶来品に熱中し、金をつぎ込んでいたことが藩内で問題視されたのです。幕末の薩摩藩は極度の財政難に苦しみ、一時は藩の借金が年収の40倍にあたる500万両(約2500億円)になったこともありました。新たな抜擢された家老・調所広郷が徹底的な緊縮で収支の回復をはかり、この時期ようやく再建が成功した段階でした。調所はオランダかぶれの島津斉彬が当主になれば今度こそ薩摩藩は破綻すると警告を発していました。父の・斉興は斉彬に藩主を譲ることを躊躇い、側室の子で聞き分けの良い次男の島津久光を時期藩主にしようと考えていたのです。しかし、藩内では幕府老中の阿部正弘などが斉彬の一刻も早い藩主就任を訴えていました。この時期、西洋列強がアジアに接近して植民地化を進めており、日本にもその脅威が迫っていました。そうした中、藩内で大きな発言力を持っていた調所が死去。幕府側が強力に後押ししたことでついに島津斉彬の薩摩藩11代藩主就任が実現。薩摩のみならず国難打開の任を背負い立ち上がることになったのです。

 

知恵①偏った意見の者に注目せよ

嘉永4年(1851年)藩主として薩摩へ初のお国入りを果たした島津斉彬。財政再建にかわり新たな柱としたのが人材登用。身分を問わず意見がある者は誰でも書面で提出せよと呼びかけました。集まった書状を丹念に読んでいくと同じ意見をしつこく送る者がいることに気づきました。

「年貢を取り立てる役人が不正をはたらき私腹をこやしています。そんな役人はクビにすべきです」

差出人は下級藩主の西郷吉之助、のちの西郷隆盛です。当時、西郷は23歳、農民から年貢を取り立てる役についていました。部署には賄賂を貰う役人たちが多く、西郷隆盛はその全員の免職を主張していました。島津斉彬は西郷隆盛を呼び出し「お前の訴えは視野が狭い。仲間を告発し彼らを一掃すれば藩は良くなると思うか?ましてお前の正義も孤立しては意味がなく、賛同者がいなければ何もできないと心得よ」と伝えました。自分の意見が通らなかったどころか、周りと協調できない変わり者と戒められ落ち込む西郷隆盛。しかし、一方で島津斉彬は西郷隆盛の持つ頑固さに大きな可能性を感じていました。

それから3年後、島津斉彬は身の回りの雑用をつとめる御庭番に西郷隆盛を抜擢。側に置き直接指導を始めました。島津斉彬の指導方法は独特でした。まず相手に自分の意見を存分に話させます。当時、西郷隆盛が熱中していたのは攘夷論。欧米列強が接近してきたら武力でうちはらい遠ざけるというもの。西郷の話を十分聞いた上で島津斉彬は別の見方を示しました。開国し交易した方が国は強くなるのではないか。根気よく対話していくことで頑固者の視野を徐々に広げさせていくというのが島津斉彬のやり方でした。

「付和雷同で意見を持たぬ者、十人が十人とも好む人材、彼らは非常事態に対応できない。偏屈な男こそ国の宝である」(島津斉彬)

見出した偏屈な若者は他にもいます。藩士の小松帯刀です。小松は後に家老に抜擢。幕末動乱の最中、薩摩藩を見事にたばね明治維新の実現に貢献した人物です。小松は幼い頃から極め付きの変人として有名でした。一度勉強し始めると食事を忘れ昼夜の別なく没頭し、体を壊すありさま。母親が気晴らしに琵琶でも弾けと進めると、今度は一日中琵琶を弾き続け再び病気を悪化。友達からは融通の利かないバカ扱いされていました。噂を聞いて興味を持ったのが島津斉彬。小松を呼び出し、自由に意見を言わせてみたところ藩主の外国への密航を提案。その大胆さを気に入った島津斉彬は小松に留学生の派遣計画の立案を命じました。残念ながらこのあと島津斉彬が急死したため計画は頓挫。しかし小松は島津斉彬の意思をつぎ7年後の慶応元年、16名もの留学生をイギリスに送り出すことに成功しました。帰国した若者たちは外交官や官吏となり明治政府の礎となりました。激動の時代に必要なのは器用さよりまず意志の強さ。島津斉彬の頑固者に着目した人材登用により薩摩藩は危機をもろともしない藩に成長していきました。

 

知恵②同類に会わせよ

江戸時代は藩が一つの国であり他藩との必要以上の接触は極力制限されていました。その中で藩の枠を超え、同じ考えを持つ遠くの人々と積極的につながろうとしたのが島津斉彬でした。特に親しかった仲間の一人が水戸藩主・徳川斉昭です。他にも福井藩の松平慶永や宇和島藩の伊達宗城、佐賀藩の鍋島斉正など西洋文化に興味を持つ大名たちと連絡を取り合い、その知識を深くしていきました。島津斉彬はこのネットワークを人材育成にも活用しようと考えました。付き合いのある藩主のもとへ若者たちを送り出したのです。島津斉彬が重視したのは同じ志を持つ者たちをひきあわせることでした。

ある時、西郷隆盛を福井藩と接触させました。福井藩には西郷と同じ頃合いの若者がいました。橋本左内です。秀才として藩主に抜擢され西郷と同じように各地の伝令役などをこなしていました。橋本は西郷に「これからの日本は富国強兵に力を注ぎ、身分を問わず誰もが政治に参加できる国にしなくてはならない」と主張しました。最初は反発も感じた西郷でしたが意見をぶつけ合ううち、いつしか無二の親友に。以後、西郷と橋本は徳川家の将軍擁立問題などで協力。しかし橋本は26歳で亡くなりました。西郷は「自分は橋本左内に学問においても人物においても遠くおよばなかった」と言って深く死を悼んだと言います。

島津斉彬は他にも幕府が長崎に海軍練習所を開設すると聞くと、すぐに航海術に興味を持つ若者を派遣。長州に腕の良い医者がいて門弟が集まっていると聞くと、医学を志す者を送り出しました。同じ志を持つ者たちの出会いが次々生まれていきました。人材育成の先に日本の近代化を夢見ていた島津斉彬は、安政5年(1858年)7月16日、突然の病に倒れ亡くなりました。亡き主君の思いを引き継いだのが西郷などの若き藩士たちでした。難局に立ち向かう彼らを先々で救ったのが島津斉彬が引き合わせてくれた友人たちのネットワークでした。藩を超えた若者たちの結束によって明治維新の偉業が成し遂げられることになったのです。


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