「カルミナ・ブラーナ」は20世紀ドイツの作曲家カール・オルフの傑作です。中世の古い詩をモチーフにした歌詞は、当時の人々の心の叫びが歌われています。
しかし、オフルはなぜ中世の古い詩を使ったのでしょうか?それには当時ドイツを支配していたアドルフ・ヒトラーの存在が深く関わっていました。
よみがえる中世の詩
ドイツ南部にあるサレジオ・ドンボスコ修道院で、1803年に貴重な詩集が発見されました。詩集には中世の時代を生きた修道僧たちの愛の喜びや権力への不満など、心の叫びが赤裸々につづられていました。ラテン語や古いドイツ語で書かれた詩は全部で250余り。その中からカール・オルフが24編を選んで作曲したのが「カルミナ・ブラーナ」です。
詩集には、この曲を読み解くために欠かせない一枚の絵が描かれています。車輪の中心にいる女神と、女神が回す車輪に翻弄される人間の姿です。
曲の冒頭は「カルミナ・ブラーナ」の中で最も有名な曲「おお運命の女神よ」で始まります。人生は運命の女神によって左右され、自分ではどうすることもできない嘆きを歌っています。
次に「春の喜び」の歌が何曲か続きます。ここでは厳しい冬を抜け出して春のおとずれを喜ぶ人の思いが歌われています。
続いて酒場を舞台にした歌「酒場で…」です。ここでは酒を飲んだ人間が己の運命を嘆いたり権力への不満をぶちまけたりします。
そして「愛の誘い」へとうつります。ここでは人間の愛と生の喜びをおおらかに歌い上げます。そして最後は再び「おお運命の女神よ」でしめくくられます。
「カルミナ・ブラーナ」の音楽的特徴は、同じメロディが何度も繰り返されることと力強いリズムです。人間の本能に訴えかける原始的な響きです。
オルフはそれまでの伝統的なヨーロッパ音楽は、すでに終わりを迎えていると感じていました。彼は古代ギリシャ時代のような、言葉と踊りが密接にかかわり融合したものこそ音楽だと考えていました。つまり、音楽の起源に戻ろうとしていたのです。
(オルフ・センター所長トーマス・レッシュさん)
中世の古い詩と出会ったことで、自らの音楽の方向性を見出したカール・オルフ。傑作「カルミナ・ブラーナ」はこうして誕生したのです。
オルフ自身の再生の歌
カール・オルフは1895年、ドイツ南部の都市ミュンヘンで生まれました。幼い頃大好きだったのが太鼓を叩くこと。しかも太鼓のリズムに合わせて歌も口ずさんでいたと言います。14歳で最初の合唱曲、18歳で最初のオペラを作曲するなど、早くから才能を開花させていました。
しかし、第一次世界大戦が勃発。順調だった音楽活動は中断されてしまいます。オルフが仲間と戦った場所はロシアの前線。そこには厳しい現実が待ちかまえていました。
命を長らえたオルフは、子どもの音楽教育に携わりながら作曲活動を再開。そして運命の詩と出会うことになるのです。
オルフが「カルミナ・ブラーナ」の詩と出会ったのは1934年の春のこと。詩集の最初のページをめくると、目に飛び込んできたのは運命の女神の絵でした。それ以上に彼の興味を引いたのは詩の最初の3行でした。
おお 運命の女神よ 写ろう月のごとく
この詩の言葉に触発されたオルフは、その日のうちに冒頭の合唱のイメージを固めたと言います。そして1936年、全25曲からなる「カルミナ・ブラーナ」が完成。この年、ベルリンオリンピックが開かれました。
当時のドイツは、ヒトラー率いるナチスが支配していました。カルミナ・ブラーナの歌詞にはあからさまな権力への不満も含まれていました。この作品がナチスが批判していると受け取られないようオルフは細心の注意を払う必要がありました。
フランクフルトの劇場で開かれた初演は大成功。歌手たちは衣装をつけ踊りを交えて歌いました。オルフは次のように語ったと言います。
これまでの私の作品は全て処分してください。カルミナ・ブラーナこそ私の出発となる作品です。
第一次世界大戦で人生のどん底を体験し、ヒトラーが支配する厳しい時代を生き抜いたオルフ。彼もまた運命の女神に翻弄される車輪の上の人間だったのです。
しかし、運命の女神の車輪は常に回り続けています。人生は必ず再生していく、オルフがカルミナ・ブラーナで伝えたかったのはそのことだったのかもしれません。
「ららら♪クラシック」
中世の詩からのメッセージ
~オルフの「カルミナ・ブラーナ」~
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