水戸黄門 ライフワークを成し遂げるには?|知恵泉

NHK・Eテレの「先人たちの底力 知恵泉」で水戸黄門 人生のプロ(前編)ライフワークを成し遂げるには?が放送されました。水戸黄門(みとこうもん)こと徳川光圀(とくがわみつくに)は徳川の御三家・水戸藩をおさめた実在のお殿様です。

 

徳川光圀のライフワークは歴史書「大日本史」の編纂でした。初代天皇に位置づけられる神武天皇から室町時代の半ばまで、天皇や貴族、将軍その家族の歩みまで網羅した途方もない歴史書作りです。このライフワークに出会ったきっかけは若き時代のある苦しみにありました。大坂の陣で徳川の世が確立してから間もなくの1628年、徳川光圀は水戸徳川家に生まれました。当時、兄が2人おり徳川光圀は三男。普通なら家督を継ぎ藩主になる立場ではありませんでした。ところが兄たちが病に倒れたり幼くして亡くなったりしたため徳川光圀は6歳の時、父親から跡取りに決められました。そのことが徳川光圀を追い詰めることになりました。この時、徳川光圀が逃れようとしていたのは父によって定められた自らの運命と家を継げなくなった兄を思う気持ちでした。後に「弟の身で私が世継ぎになったことはいつも心に恥じてきたのだ」と告白しています。しかし、ある日の小さな出会いが徳川光圀の生き方を変えライフワークを生み出していきました。

 

知恵①最初の感動を大事にする

徳川光圀は18歳の時に中国の歴史書「史記」を読みました。そして中国のある国の王子、伯夷(はくい)と叔斉(しゅくせい)の兄弟の生き方に感動しました。叔斉は弟にも関わらず父の命で王と継ぐことが決められており、徳川光圀と同じ境遇でした。父が亡くなると叔斉は兄の伯夷こそ王を継ぐべきだとその座を譲ろうとしました。悌(てい)つまり年長者への敬いを重んじた行動でした。ところが兄の伯夷は弟が国を継げるよう自ら国を去ってしまいました。父の意志に従うことが子供として正しい行いである、つまり孝(こう)を重んじたのです。それでも弟の叔斉は兄への思いを断ち切れません。そして自らも国を離れていきました。やがて伯夷と叔斉の兄弟には残酷な運命が待っていました。諸国を流浪する中、ついに飢え死にしてしまうのです。君主として名を残すような華々しい業績はありませんでした。しかし「史記」を編んだ司馬遷はそんな兄弟を「列伝」の冒頭に取り上げ、悩みと苦しみが人間の歴史に他ならないことを読むものに伝えようとしたのです。古と兄弟と同じ境遇に苦しむ徳川光圀はこの読書経験によって歴史書が持つ重大な役割に気づいていきました。

1657年、徳川光圀は歴史研究所を設立。ライフワークになる「大日本史」の編纂事業にとりかかりました。その研究所の名を後に「彰考館」と名付けました。過去を彰かにすることで将来を考えるという意味です。「大日本史」の序文には徳川光圀が最初に味わった感動を大事にしてライフワークを始めていった経緯が綴られています。

「18歳で史記の伯夷伝を読まれた光圀様はいつもこう仰せになっていた。歴史書こそが後世の人の心が動かしていくのである」

 

歴史書の編纂をライフワークに定めた矢先、ある難題が徳川光圀につきつけられました。それが参考にするべき史料がないということ。実は日本では「日本書紀」など、かつては国家事業として歴史書が作られていました。しかし平安時代半ばで途絶えたため、その後の歴史については分からないことが多すぎたのです。これを調べ上げることは水戸藩だけでなく多くの人の助けが必要です。徳川光圀はライフワークにどう協力してもらったのでしょう。

 

知恵②立場を越えてとことん誠意を尽くせ

ライフワークを軌道に乗せるため徳川光圀がまず始めたのが優れた研究者の全国募集。給料は200石~400石ほど用意。現在の米価格にすると650万円~1300万円ほどになり、かなりの好待遇です。出勤日にはお酒つきの豪華な食事とお菓子も提供。さらに勤務が終わればお風呂まで用意。体のケアまで気を使いました。こうして給料も福利厚生も万全に整えたことで、徳川光圀のもとには全国から優秀な人材が続々集結。多い時で50人余りが編纂に関わりました。その中には格さんこと安積覚兵衛と、助さんこと佐々介三郎もいました。徳川光圀は助さんたちに重要な使命を与えました。それが全国史料探しの旅です。

ところが思わぬ問題が。それは貴族や神社仏閣が貴重書を門外不出にしているということ。助さんは気位の高い相手から史料を見せてもらえなかったのです。こうした中、徳川光圀はライフワークにどう協力してもらったのでしょうか。

吉水神社には南朝に関する数多くの史料が残されていましたが、北朝の流れを引く天皇をはばかり助さんは史料を見せてもらうことが出来ませんでした。徳川光圀が出した手紙が残されています。

「先ごろ介三郎という者が秘蔵の史料を見せていただき誠にお世話になりました。ご連絡させていただく印として季節の服をひとそろい進呈させていただきます」

徳川光圀は御三家の殿様という立場におごることなく、手紙で細やかな気遣いを見せることで史料を見せてもらったようです。徳川光圀はこの姿勢をどんな相手に対しても徹底していきました。

 

「大日本史」の編纂は開始から40年以上経った晩年になっても続けられました。しかし完成の見通しは全く立ちませんでした。理由の一つが扱う範囲が膨れ上がってしまったこと。例えば占い師や超能力者の歴史まで調べるほど。こうして2000人以上の人物をあらゆる史料から掘り起こさなくてはならなくなったのです。この状況で水戸藩の財政も悪化。学者の給料や全国で行った調査のため藩の財政は火の車に。一説にはこの事業のために藩の予算の3分の1が投入されたとも言われています。

 

知恵③くじけそうな時は未来を夢見る

膨大な史料を集めた徳川光圀の事業は「大日本史」以外にも様々な出版物として結実しました。歴史というジャンルを超えて日本人の営みをとらえ直すものとなりました。「礼儀類典」は朝廷の儀式マニュアルです。貴族の日記などから朝廷の文化をよみがえらせた「礼儀類典」は天皇にも献上され、実際の儀式に役立てられました。「新編鎌倉志」は鎌倉の地理を調べ上げたもので、ガイドブックとして庶民にも大いに利用されていきました。

1700年、徳川光圀は「大日本史」の草稿すら見ることなく73歳で亡くなりました。その後、経済的な苦境の中でも水戸藩では徳川光圀の意志が引き継がれ「大日本史」の編纂が続けられていきました。そして1906年、ついに完成。天皇から庶民までの人物評伝にい加え、地理や経済まで網羅された壮大な歴史書となりました。こうして徳川光圀のライフワークは成し遂げられたのです。


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