栃木県那須、千振(ちふり)地区には約70年前、生きるために森林を切り開き町を作り上げた人たちがいました。
1946年11月7日、栃木県那須山麓に馬小屋に多くの人々が集まってきました。彼らは終戦後に旧満州から引き上げてきた人たち。彼らには日本に帰る家はあったのですが、旧満州で豊かな暮らしをしていたと思われていた引揚者たちの多くは日本での居場所がなかったのです。
なぜ満州に行ったのか?
1931年の満州事変により満州は日本の支配下となりました。そこに鉄道や工場を次々と建設し、旧満州は急速に近代化が進み好景気に。さらに、広大な領土に農地を広げていったため人手不足が問題に。
一方、日本の一部の地域では度重なる飢饉におそわれ食料調達が困難な状態になっていました。
そこで、政府は満州へ移住する農民をつのりました。その一つに千振(ちふり)開拓団と呼ばれるものがありました。東北、北陸、甲信越、北関東から数多くの男性たちが家も財産も処分し、満州での豊かな生活を夢見て移り住みました。
千振は広く豊かでした。さつまいも、スイカ、大豆、粟、とうもろこし、小麦などがとれ、貧困にあえいでいた日本の暮らしが嘘のようでした。そして、家族も増え子供も沢山生まれたのです。
当初、男性ばかりが移住した千振ですが、どのように家族が増えていったのでしょうか。
1935年、日本から千振の開拓地にやってきたのは125人もの若い女性たちでした。彼女たちは「大陸の花嫁」と呼ばれ、全く知らぬ男性のもとへ写真1枚だけを持って日本から満州へ嫁入りしたのです。
やがて、出産ラッシュに。新たな命が生まれ家族ができ、誰もがこの地に家庭を築き骨を埋めるつもりでした。
戦争勃発
ところが、1941年12月8日に太平洋戦争が勃発。旧満州国にいた民間人の17~45歳の男性が軍に緊急動因されたのです。満州ではソ連が不可侵条約を破り侵攻してきたため、千振の人たちは開拓した土地を追われました。
しかも、鉄道が爆破されたため、千振から旧満州の首都・新京まで600kmもの距離を歩くしかありませんでした。中には自分たちの土地を守ろうと千振に残った開拓民もいましたが、ソ連兵に攻め入られ集団自決。逃げ始めてわずか2日後、戦争は終結しました。
しかし、ソ連の終戦の解釈の違いから侵攻は収まりませんでした。この頃、多くの母親たちは悲しい決断をせざるおえませんでした。このまま歩き続けても餓死させてしまうと、多くの母親たちはやむなく子供を中国人に預けたのです。このとき預けられた子供たちが中国残留孤児と呼ばれる人たちです。
逃げた人たちは3ヶ月歩き通し新京にたどり着きました。しかし、この混乱で亡くなった日本人は約25万人。そのうち約8万人が開拓民だったと言います。
その後、引き揚げ船に乗って佐世保へ。ようやく帰ってきた故郷ですが、満州からの引揚者には辛い現実が待っていました。
千振地区の開拓
終戦直後、日本は失業者が700万人に達し住宅難、食糧難は究極の状態にありました。
満州千振で畜産指導員をしていた玉崎幸二は日本本土で終戦をむかえ、何度も役所に掛け合い栃木県那須の標高500mの丘陵地に国有地を借りることができました。そこにあったのは馬小屋とわずかな農地と農耕具だけ。そこで満州の仲間が引き揚げてくるのを待ったのです。
まずやってきたのは日本での居場所がなかった吉崎千秋。そして中込敏郎。日本での居場所がなかった仲間たちが次々合流してきました。
彼らは借りた農地にそば、麦、とうもろこし、さつまいもを蒔き自給自足できるよう準備を始めました。体力に自信のある男たちは出稼ぎに。残った者は全員平等の集団生活を送りました。しかし、70世帯の胃袋を満たすことなど到底無理でした。
ようやく国から彼らに土地が分け与えられました。しかしそこは山林原野。手作業での開墾が始まりました。
そんな中、大人数の共同生活は限界になりいくつかの組み分けをしての生活が始まりました。しかし、冷害に見舞われることも多く農作物は不作でした。
そこで1949年、政府からの現物融資という形で15頭のホルスタインを借り入れることに。2年後、子牛が生まれました。見よう見まねで乳搾りをし、毎朝子供たちが牛乳缶を集配所へ運びました。牛乳は千振の重要な収入源となりました。
畑は牧草地にかえられ、千振全体が畜産へと移行していきました。そして1951年に千振に電気が引かれました。わずか15頭から始まった酪農ですが、現在は約1600頭にたっし、千振は日本有数の酪農が盛んな地となりました。
現在の人口は約300人です。千振の名前は地区として残り地図にも農協の名前にも使われています。
「ザ!世界仰天ニュース」
栃木県千振地区の歴史
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