横須賀線爆破事件|アンビリバボー

フジテレビの「奇跡体験!アンビリバボー」で横須賀線爆破事件について放送されました。1968年6月16日、東京駅と久里浜駅を結ぶ横須賀線が東京駅に向けて走行していました。この日は父の日。生憎の雨でしたが休日を過ごす家族連れが多く車内は和やかな空気に包まれていました。電車の6両目には家族連れなど63名の乗客が乗り合わせていました。そして電車は大船駅の手前200mのところにさしかかろうとしていました。しかし網棚に置かれた時限式の爆弾が爆発。この爆発で乗客63名のうち男性1人が病院に収容後死亡。負傷者28名を出す大惨事となりました。

 

横須賀線爆破事件は延べ2万5000人の捜査員が動因されました。実は数年前から「草加次郎」と名乗る犯人による爆破事件が相次いでいました。犯人は多額な金銭を要求する脅迫文を送り地下鉄をはじめ都内のあらゆる場所を爆破の標的としました。さらに横須賀線爆破事件の前年には兵庫県でも山陽電鉄爆破事件が発生。東京と兵庫と場所が異なることから2つの爆破は別の人物の仕業と考えられていましたが、いずれの事件についても警察は犯人を検挙できずにいました。そのため警察は今回の横須賀線爆破事件に並々ならぬ闘志を燃やしのぞんだのです。連続爆破事件との関連性をあたると共に捜査員たちは徹底的な聞き込みを行いました。網棚に爆弾が仕掛けられたため、犯人は横須賀線にある16個の駅いずれかから乗車したことは間違いありません。そこでまず、同じ電車に乗り合わせていた乗客の洗い出しから始めました。その中に犯人か犯人を目撃した人物がいる可能性があったからです。この日の乗客は推定350名。爆破物が置かれた6両目の乗客に関しては、そのほとんどが病院に搬送されていたため警察による聞き込みと身辺調査が行われました。さらに他の車両に乗っていた乗客については当日使用された切符48万枚すべてを回収。切符に付着していた指紋と警察に登録されている指紋とを照合。犯罪歴のある人物が乗車していなかったか確認作業が進められました。また壁や床に血痕がとびちった車内では徹底した現場検証が行われました。仕掛けられた爆弾は猟銃などに用いられる火薬に乾電池を接続し作られた手製の時限式爆弾だと分かりました。それが犯人の唯一の遺留品でした。しかし爆弾は粉々に砕け、もはや原型をとどめておらず、ここから犯人を特定するのは困難を極めました。

 

実は横須賀線爆破事件が起こる10日程前、警察に1通の投書が届いていました。そこには「今月の16日に東京駅のどこかに手製のダイナマイトを仕掛けるので注意されたし」と書かれていました。このころ、多発する爆破事件に便乗したいたずら目的の投書が数多く送られてきていたため警察は始めこの投書もただのイタズラと判断し無視していました。しかし、犯行を予告した日に事件が発生したのです。捜査員たちは投書に記されていた消印から捜査範囲を葛飾区内に絞り込みました。数日後、再び同じ人物が書いたと思われる投書が警察に届きました。そこには「手紙に書いたとおり6月16日にダイナマイトで爆発させると言ったのですがいかがでした?7月7日上野駅で爆発させるつもりです」と書かれていました。しかし、この犯行予告によって犯人と思われる人物は墓穴を掘ることになりました。実はその人物は2度めの投書に犯行予告のほか、自身の犯罪経歴を記していたのです。自らを誇示しようとでも思ったのでしょうか。警察がこれらの犯罪について綿密に調査した結果、ある男の存在が明らかになったのです。警察はこの男を緊急逮捕。男の家の家宅捜索を行うと共に嘘発見器による取調べも行われました。しかし、投書はたしかに男が出したものでしたがでたらめに書いた日付と内容が偶然、横須賀線爆破事件と一致したにすぎませんでした。捜査は振り出しに戻ってしまいました。

 

捜査本部には現場から押収された遺留品が全て集められました。どれもバラバラになっていましたが、それらをつなげる作業を行いました。特に注目されたのが爆弾が包まれていた新聞紙。新聞は地域によって記事の内容が違う場合があり、文字は印刷する機械によってクセが出ることも分かっていたからです。そして7月末、新聞紙の一部が解読できるまでになりました。復元された紙面から昭和43年4月17日の毎日新聞東京多摩版であることが判明。さらに文字のクセから犯行に使われた新聞は東京都立川市、日野市に配られた朝刊と分かったのです。この地域で毎日新聞を購読していたのは1万5000軒。捜査員たちは毎日新聞の購読者名簿をもとに1万5000軒をしらみつぶしに当たると共に4月17日の朝刊の回収を行い、この日の朝刊が自宅にある家は容疑者リストから外しました。

 

そんな中、警察はさらなる重要な証拠を手に入れました。爆破装置を入れていたと思われる箱の復元に成功し、箱の一部に「みすづ総本店」という印字を発見したのです。それは名古屋にある最中を製造している店の名前でした。しかし、この最中の詰め合わせは1日6万箱以上が販売されているため購入した客から犯人を割り出すことは不可能でした。それでも警察は毎日新聞の購読者をあたるさい最中についても聞いて回ることにしました。すると、旅行のお土産に最中を配ったという女性を発見。そのお土産を配られた一人が25歳の岡島信次(仮名)でした。大工をしていた岡島信次は事件の1年前、一人暮らしをしていたアパートから新婚向けに建てられた一戸建ての借家に引っ越していました。岡島は事件当時、川崎市の工務店に勤務。図面が読める岡島は一目置かれる存在でしたが、事件が起こる3ヶ月前、突如周囲が驚く奇行をはじめたと言います。猟銃の火薬をつめたものを火に入れ威力を試していたというのです。

 

事件発生から約5ヵ月後、岡島の任意出頭を要請。すると岡島はあっさり罪を認めると共に犯行にいたった経緯を語り始めました。事件から9年前、中学を卒業した岡島は地元・山形で大工の見習いとして働き始めました。しかし、その職場は2年と持たず退職。その後、上京し東京都内の工務店に就職しました。もともと工作や機械を分解することが好きだった岡島は2年たらずで一通りの図面が読めるように。さらに一流の職人になるために2級建築士の資格を取ろうと勉学にも励んでいました。そんな時、幼馴染の牧恵(仮名)と18年ぶりに再会。岡島は勝気で少しわがままな性格の牧恵に惹かれていったと言います。そして牧恵は岡島のアパートを度々訪れるように。そして再会から20日後、岡島から告白し2人は付き合うことになり同棲を始めました。しかし、牧恵は岡島と再会する5年前に結婚していました。しかし結婚後、夫は女性との交友関係が派手になり家に帰らない日が増えていったと言います。そのため離婚話を何度も切り出しましたが夫の承諾は得られず、また牧恵の母親も離婚には反対していました。そんな時に出会ったのが岡島だったのです。牧恵の秘密を知っても岡島は牧恵を好きなままで2人は1967年3月16日に婚約しました。しかし数日後、岡島の母から1通の手紙が届きました。そこには「牧恵の父は窃盗の罪で服役中に死亡した人、結婚はできない」と書かれていました。牧恵の父親は牧恵が物心つく前に亡くなっていたので、この事実を牧恵は岡島の母からの手紙で始めて知ったのです。岡島はそんなの関係ないと言いましたが、その後も岡島の実家から結婚に反対する手紙が届きました。中には若い女性の見合い写真までそえられた手紙もあったと言います。そして結婚を誓い合ってから1ヵ月後の4月16日、牧恵は身を引き去って行ってしまいました。しかし岡島は諦めませんでした。東京日野市に新婚向けに立てられた一戸建ての借家を見つけると、すぐさまそこへ引越し結婚の準備を整えていったのです。しかし、牧恵が岡島の職場の同僚であり唯一の友人である斉藤保(仮名)と付き合っていることが発覚。岡島は7年間勤めていた職場を去り別の工務店に転職。そこで周囲が驚く奇行を繰り返したのです。

 

そして事件の半年前、お隣の女性から新婚旅行のお土産と最中をもらいました。新婚旅行という言葉に岡島は心をかき乱されました。そして、どうにか牧恵を取り戻すべく斉藤のアパートへ。しかし「天才と狂気は紙一重よ」と言われてしまいました。そして1968年6月16日、何気なくテレビをつけると父の日と放送されていました。実は岡島の父は彼が2歳の時に亡くなっていました。その命日がくしくも6月16日だったことをキャスターの声で思い出したのです。そして岡島は奇妙な一致に気づきました。最初に勤めた職場を辞めたのが7月16日、牧恵と偶然の再会を果たしたのが2月16日、牧恵と結婚を誓い合った日が3月16日、牧恵が岡島のもとを去った日が4月16日、斉藤と一緒だった職場を辞めたのが10月16日。それは単なる偶然ですが、16日という日が自分にとって特別な意味を持つように感じられたのです。また牧恵と斉藤のことを思い絶望感にうちひしがれました。この日は雨だったので斉藤の仕事は休みかもしれない、そうすれば牧恵は横浜から電車に乗り都内の斉藤の元を訪れるかもしれないと考えました。そして岡島は電車にイタズラをすれば牧恵が斉藤に会えないと思ったのです。そして自分のことなど頭の片隅にもないだろう牧恵に自らの存在を思い浮かべて欲しかったのです。それは実に短絡的な発想でしたが、岡島の暴走は止まりませんでした。岡島ははなから牧恵自身の命を狙うつもりはなかったと言います。牧恵が斉藤のもとを訪れるのを少しでも恐れるようになればいいと思ったそう。だからこそ火薬も脅かす程度の量に調節したつもりでした。しかし、爆発の威力は想像をはるかに超えたものでした。その後行われた裁判で弁護士は岡島に明確な殺意がなかったことを主張。しかし、職場で何度も実験を行いその殺傷能力を事前に知っていたと裁判官は判断。弁護士の訴えは一切認められず事件から9ヶ月後、横浜地裁で死刑判決が下されました。当初、連続爆破事件との関連性が疑われ金銭や政治的な目的があると思われた横須賀線爆破事件ですが、その真相は愛する女性に対する男の異常なまでの嫉妬でした。それは決して許されることではなく最高裁でも死刑が確定。岡島は逮捕から7年後の1975年12月、東京拘置所で死刑に処されました。