沖縄 空白の1年 1945-1946 ~基地の島はこうして生まれた~|NHKスペシャル

NHK総合テレビの「NHKスペシャル」で沖縄空白の1年 1945-1946 ~”基地の島”はこうして生まれた~が放送されました。沖縄には在日アメリカ軍専用施設の74%が集中しています。なぜ沖縄は基地の島となったのでしょうか。なぜ今も変わらないままなのでしょうか。戦後の混乱のため資料が乏しく、これまでほとんど検証が行われてこなかった1945年~1946年にかけての1年。NHKは日本とアメリカでこの時期の未公開映像や機密資料など約2000点を入手。そこから明らかになってきたのは、このわずか1年の間に今に繋がる沖縄の原型が出来上がったという事実でした。

 

収容所から始まった戦後

沖縄は日本本土を守る最前線とされ凄惨な地上戦が繰り広げられました。県民の4人に1人、約12万人が犠牲となりました。アメリカ軍が撮影した映像には、かろうじて生き延びた人々が連行されていく様子が映しだされています。1945年4月、沖縄本島に上陸したアメリカ軍は南北に分かれて進行を開始。民間人を戦闘から隔離し保護するためとして12の地区の収容所に送り込みました。空白の1年はここから始まったのです。仲村元惟さん(79歳)は1945年5月から1年余りにわたって収容所に入れられていました。

「我々が入るところは豚小屋しかなかったんです。四畳半程度の囲いの豚が住む所。そこしか空いていなかったから。座ってしか眠れません。足をお伸ばすこともできないぐらいです」(仲村元惟さん)

アメリカでの組織的戦闘が終わった6月の時点で、県民の9割30万人近くが収容所に入れられていました。マラリアが蔓延し、深刻な食糧不足に陥り、少なくとも6400人が命を落としたと言われています。仲村元惟さんは当時、飢えをしのぐため他の子どもたちとと共に収容所を抜け出し近くの海岸に向かったと言います。

「米軍が船から残飯やらちりを流すんです。海に。ハンバーグの切れ端であるとかパンくずであるとか、ミカンやリンゴの食べ残しとか、そんなものが流れてくるんですね。パンくずが流れてきた場合には塩水を含んだパンくずなんです。それを手に握って搾ってそれをそのまま食べるような。これくらい飢えた子供たちであったと」(仲村元惟さん)

アメリカ軍が住民を収容所に入れたのは戦闘から保護するためだけではありませんでした。アメリカ国立公文書館の未公開映像にその理由が映しだされていました。終戦の1ヶ月前、アメリカ海兵隊が撮影した読谷村の映像には飛行場の滑走路を作る様子が映しだされています。日本本土の攻撃に向けた出撃の拠点を作っていたのです。読谷村には戦前1万5000人が暮らしていました。アメリカ軍は集落や農地があった平野部に滑走路を建設するため、住民を収容所に入れておく必要があったのです。

「居住している所を勝手に基地にしてしまった。目的としては飛行場建設が最優先されるわけですから何でもかんでも壊されたというのが実態でしょうね」(沖縄戦の映像に詳しい山内榮さん)

アメリカ軍が計画した滑走路は18本。人口が集中していた中南部を中心に建設されていきました。これにアメリカ軍の報告書をもとに集計した収容所の人口データを重ね合わせると、平野部に飛行場が建設された後、住民たちは山がちな北部の収容所に押し込められていったことが分かりました。

 

沖縄を巡る知られざる攻防

1945年8月15日、日本が降伏。戦争は終わり本土攻撃という基地建設の目的はなくなりました。しかし、目的を失ったにも関わらず兵士たちは沖縄に駐留し続けていました。実はこのとき、アメリカ国内で戦後の沖縄を巡る対立が始まっていました。統合参謀本部は沖縄戦で多くの犠牲を払ったため、占領の継続を主張していました。一方、国務省は各国が領土を拡大しようとしたことが世界大戦を招いたとして占領に反対しました。軍との話し合いの場で、国務省は沖縄を非武装化した上で日本に返還すべきだと主張していました。この対立の構図が沖縄の占領に持ち込まれました。本土では統合参謀本部の考えに近いマッカーサー率いる陸軍が主体となって占領を行いました。それに対し、沖縄では権力の二重構造が生まれていたのです。統合参謀本部の指示を受ける陸軍などの部隊が駐留。一方、住民の統治は国務省の考えに近い海軍の琉球列島海軍軍政府がになったのです。メンバーは通常の兵士ではなく政治や歴史を専門とする学者たち。沖縄に関する知識を身につけ派遣されてきました。海軍軍政府の報告書には「より充実した民主主義を実現する」という意外な一文が記されていました。

 

焦土で始まった民主主義の模索

元海軍軍政府将校のワーナー・バースオフさん(91歳)は当時、ハーバード大学で政治学などを専攻していました。民主的な方法で統治を進めようとしていたと言います。

「私たちはまず沖縄の社会と政治を再構築する仕事に取り組みました。この島全体を復興させることが任務だったのです」(ワーナー・バースオフさん)

こうした統治方針には当時のアメリカが沖縄をどう見ていたかが反映されていました。

「沖縄の人は自分を日本人だと思っているが本土からは差別されている。日本の軍国主義を教え込まれているが地位は低いのだ」(戦時中のラジオ放送の音声より)

海軍軍政府が沖縄統治のために作成していたハンドブックには「明治以降、沖縄が本土に強制的に支配下に置かれてきた」と記されています。海軍軍政府は本土との潜在的な溝に着目し、そこから沖縄を解放することを考えていたのです。

「私たちのやり方は本土による支配よりもずっと進歩的でした。統治を押しつけるのではありません。沖縄の人々が自分たちの手で社会を運営できるように自治を後押しすることが重要だと考えていたのです」(ワーナー・バースオフさん)

その第一歩として海軍軍政府が設けたのが沖縄諮詢会です。戦前の教育者や政治家など15人の有力者が委員に選ばれました。諮詢会は収容所にいた30万の住民の代表として海軍軍政府に対し意見や要望を伝える役割を担いました。8月15日、日本が降伏した日に行われた会合で海軍軍政府は諮詢会にこう伝えていました。

「誠心誠意、沖縄の福祉に対して率直に意見を述べてほしい。責任と管理は漸次沖縄の住民に委譲するつもりである」(海軍軍政府 副長官)

戦前、本土から知事が派遣され中央の考えに翻弄されてきた沖縄。沖縄のことは沖縄で決める、初めて自治の可能性が芽生えたのです。諮詢会が沖縄の今後のあり方を語り合った時の議事録が残っています。

「アメリカの憲法を調べて沖縄の自由のために憲法を作りたい」(元新聞記者 又吉康和)

「人民の有する権限を大きくし、アメリカ大統領のごとき制度を作ることも考えてみたい」(元県議 仲宗根源和)

仲宗根源和が当時を語った肉声が40年ぶりに見つかりました。日本の軍国主義に巻き込まれた反省をもとに沖縄の新たな道を模索していました。

「みんなで会っていると何かやろうじゃないかという空気が自然と出てくる。力を結集したら十分独立できるんじゃないか。日本に頼ったらまた日本に持っていかれちゃうんだから。我々は我々でまた元の秩序を取り返して生活も豊かにしていかなくてはならんと」(仲宗根源和の音声テープより)

諮詢会は海軍軍政府の指導のもと各収容所の代表を選ぶ選挙を実施しました。この時、本土の総選挙に先駆けて女性に参政権が与えられました。

 

この頃、海軍軍政府は新たな計画に取り掛かっていました。選挙の翌月に発表した再定住計画です。収容所にいる住民の希望にそって元の居住地に戻そうというものでした。計画の完了予定日は1946年1月1日。しかし、1月の収容所の地区の人口データを見ると依然12万5000人が留め置かれたままとなっていました。

「南部一帯には住民の家を建て食糧増産に向けて種まきをするつもりでした。それは復興にとってとても大事だったのです。しかし撤退するはずだった軍の部隊が一向に動こうとしなかったのです」(ワーナー・バースオフさん)

実はこのとき、統合参謀本部の方針のもと、沖縄に駐留していた陸軍の部隊に「普天間飛行場、滑走路をアスファルトで舗装せよ。嘉手納飛行場2つの滑走路を延長し連結せよ。那覇飛行場、滑走路を完成させよ」という命令が下されていました。背景にあったのは共産主義勢力の台頭です。スターリン率いるソビエトは日本の北方領土を実行支配。中国では共産党が勢力を拡大していました。統合参謀本部は戦時中、日本本土への攻撃拠点だった沖縄を今度は共産主義勢力に対する前線基地にしようと考えたのです。

「私たちは人けのない小さな村を次々と潰していきました。道路や飛行場を造るために。いま考えると悲しくなります。何百年も続いた村を破壊してしまったのですから。当時はそれが当たり前だと思っていましたが、後になって取り返しのつかないことをしたと気付きました」(元陸軍工兵隊ロバート・ロックさん)

当時、GHQの占領下にあった日本政府は基地化されていく沖縄をどう見ていたのでしょうか。GHQとの交渉を担った外務大臣・吉田茂のもとで、平和条約問題研究幹事会というプロジェクトが立ち上げられていました。外務省の幹部らが集められ日本が国際社会に復帰していく道筋を検討していました。メンバーの一人である川上健三は領土問題の専門家でした。川上健三は沖縄が日本から切り離されないための方策を探っていました。しかし、本土占領の指揮をとっていたダグラス・マッカーサーらは沖縄の基地としての価値を重要視していました。

「沖縄は単なる出先機関ではない。アメリカ軍のあらゆる任務の最重要拠点になる」(GHQの報告書より)

アメリカが沖縄を容易に手放さないと知った外務省は現実的な落としどころを探っていました。

「沖縄本島の米軍事基地化については我が領土として米にこれを認むることしかるべし」(平和条約問題研究幹事会 討議資料より)

アメリカが沖縄を日本の領土と認めるなら基地化には反対しない、その方針がすでに検討されていたのです。

「マッカーサーの施政の下に講和の日を1日も早く実現できるようにと必死の努力をずっと続けておった。(沖縄については)抜本的な改革を図るというところには行き得ない状態のもとで今のような現実的な解決策を通じて事態を何とか収めようとした」(元外交官 大河原良雄さん)

 

基地社会はこうして生まれた

沖縄は次第に基地を中心とした社会が形作られていきました。玉那覇祐正さん(83歳)は終戦から1年、収容所から戻って目にした故郷は普天間基地に変わっていました。戦前、2500坪の農地で芋や大豆、サトウキビなどを栽培していた玉那覇さん一家は生活の糧を失いました。基地建設を再開した陸軍は、こうした人々に目を付けていました。生活の糧を失った住民を基地の労働力として取り込もうとしていたのです。この後、無償で行われていた食料の配給が有償へと切り替えられました。同時に新しい通貨が導入され、貨幣経済が復活。通称B円、人々は現金収入がなければ生活できない状況に追い込まれていったのです。

玉那覇さんは父を沖縄戦で失い、幼い5人の兄弟を養っていかなければなりませんでした。現金収入を得るために基地の中でアメリカ兵の身の回りの世話をする仕事に就きました。

 

優先される本土 負担は沖縄へ

沖縄が基地化される一方、日本本土は民主化の道を歩み出していました。小作農に土地を与える農地改革、日本の軍国主義を支えた財閥が解体されるなど、次々と改革が進められていきました。本土占領の指揮をとっていたマッカーサーは空白の1年に沖縄への直接的な介入を行っていたことが分かってきました。本土にいる沖縄の人々の引き揚げ計画です。戦時中、疎開や出稼ぎなどで沖縄から本土に渡っていた人々が約10万人いました。これらの人々を沖縄に戻そうとしたのです。

「本土にいる沖縄人の大多数は女・子供・老人で極貧状態にある。食料、住居などで日本人に依存している。本土復興の妨げとなっている」(マッカーサーの電信 1946年1月30日)

当時、アメリカは日本の食料不足を補うため無償の援助を行っていました。これに対し、アメリカ本国でコストがかかりすぎると不満が高まっていたのです。

「マッカーサーは日本をできるだけ早く効率的に民主主義国家へと変え、その成果をアメリカ国民に示したかったのです。しかし彼にとっての日本に沖縄は含まれていませんでした。復興させる対象ではなかったのです」(ダスタフス大学デイビッド・オーバーミラー准教授)

これに対し、沖縄の住民統治を担っていた海軍軍政府は引き揚げ計画に激しく反発しました。こうした対立をうけ本国の統合参謀本部はついに大きな決断を下しました。沖縄の住民統治の主体を海軍軍政府からマッカーサー率いる陸軍に変更することにしたのです。沖縄の自治を模索していた諮詢会は基地化を進める陸軍の統治を受けることに大きく動揺しました。当初、沖縄に新しい憲法を作りたいと訴えていた又吉康和は、自治よりも現実的にアメリカとの関係を円滑にするべきだと主張するようになっていました。

「また社会の秩序ができていない。自治制は社会をますます混乱に陥らすことになる」(沖縄諮詢会議事録より)

一方、沖縄の独立も考えていた仲宗根源和は自治への思いを捨てていませんでした。

1946年4月、諮詢会をもとに戦後初の行政機構「沖縄民政府」が発足。アメリカとの関係を重視した又吉康和が副知事に任命されました。一方、自治を目指した仲宗根源和は役職を外れました。元海軍軍政府のワーナー・バースオフさんは住民の自治や収容所からの再定住といった当初の目的を果たせないまま帰国の命令を受けました。

「結局、アメリカ軍がいる限り自治などありえなかったということです。当初、私たちはアメリカが沖縄からすぐに撤退するべきだと考えていました。沖縄を住民にゆだね自治を実現したいと。しかし歴史は逆に向かいました」(ワーナー・バースオフさん)

1946年8月、沖縄本島中部の海岸に人で溢れんばかりの軍艦が到着しました。本土にいた沖縄県民10万人の引き揚げがマッカーサーによって実行されたのです。

「子どもも老女もみな大きな荷物を背負い、やかんまでぶら下げている。彼らが住んでいた家は破壊されている。みな収容所に入るしかないのだ。何て可哀想なんだ」(アメリカ陸軍将校の日記より)

真栄田義晃さん(89歳)は山口県から引き揚げました。真栄田さんが住むことになったのは那覇港の近くに新たにできたみなと村。アメリカ軍は港で軍作業につくことを条件に人々がここに住むことを許可しました。本土の民主化改革を目にした後、沖縄に戻ってきた真栄田さんは、その落差を忘れることが出来ないと言います。

「沖縄には民主主義がなかった。ヤマト(本土)は民主主義の新しい憲法ができるんだと、草案ができたり。沖縄は特別、沖縄は除外や。日本は沖縄の人の福祉とかね、何とかに興味ない。軍事基地ですよ。沖縄は軍事基地です」(真栄田義晃さん)

沖縄の空白の1年、人々はアメリカの思惑に翻弄され基地へと取り込まれていきました。そして本土の負担が押しつけられる中、溝がうまれ深まっていったのです。1947年、マッカーサーは本国に「アメリカ軍による沖縄の占領に日本人は反対しない。なぜなら沖縄人は日本人ではないのだから」と打電しています。その後も、アメリカの統治下におかれた沖縄は、朝鮮戦争、ベトナム戦争の出撃拠点とされました。一方、平和の中で高度経済成長をとげた本土。沖縄は取り残されていきました。




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