戦後70年ニッポンの肖像 日本人と象徴天皇 戦後はこうして誕生した|NHKスペシャル

昭和天皇の名のもとに始められた太平洋戦争では、日本人だけで約310万人が亡くなりました。相次ぐ空襲で焦土と化した日本。昭和天皇が暮らしていた皇居(当時は宮城)も例外ではありませんでした。明治時代に建てられた宮殿は焼夷弾による火災で焼け落ちました。

 

この森の奥深くに御文庫と呼ばれる防空壕で昭和天皇は終戦の決断を下しました。昭和天皇の決断から始まった戦後。日本人は焼け野原からどのように立ち上がり、どのような歳月を生きてきたのでしょうか。

 

1945年8月30日、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーが厚木に到着しました。

 

マッカーサー

マッカーサーは天皇を頂点とする軍国主義を根本から変え、日本の民主化をはかることを目的としていました。最大の焦点は天皇の処遇をどうするかということ。

 

当時アメリカでは厳しい意見が大勢を占めていました。終戦直前に行われた世論調査では「殺害する」が36%、「処罰もしくは国外追放」が24%で「不問に付す」は4%でした。天皇の処遇はマッカーサーがどのような決断を下すかにかかっていました。マッカーサーは天皇を処罰せず、その権威を占領政策に利用する方針を固めていきました。

 

終戦から3ヶ月、GHQは矢継ぎ早に改革を進めていきました。11月30日、陸海軍が解体されました。国民は天皇をどのように見ていたのでしょうか。当時の世論調査では天皇制を支持するが95%を占めています。大多数の国民が天皇の存在が必要だと感じていました。

 

1946年2月、戦争犯罪人を裁く東京裁判の準備が進められていました。連合国の中には天皇の処罰を求める声もありました。天皇の権威を利用しようと考えていたマッカーサーは、新しい憲法を制定し体制が変革されたことを示そうとしました。

 

2月13日、吉田茂外務大臣らがGHQ側から憲法の草案を手渡されました。その第一条には天皇の地位は政治的な権力を一切持たないシンボル「象徴」とされていました。これに同意しないと天皇の地位は守れないとGHQ側は迫りました。

 

閣議決定された憲法の草案は、天皇直轄の枢密院で議論されることになり「象徴とは何か?」疑問の声が相次ぎました。憲法の議論が進む一方、国民は深刻な食糧不足に悩まされていました。国民の不満は限界に達し、憲法よりまず飯だと約25万人が皇居前に押し寄せました。

 

5月24日、昭和天皇は終戦の放送以来2度目のラジオ放送で国民に呼びかけました。そして1946年11月3日、日本国憲法が公布され天皇は日本国の象徴となりました。新たな地位を受け入れた昭和天皇は戦犯として訴追されることはありませんでした。

 

1946年1月13日、昭和天皇の側近である木下道雄のもとにGHQからの天皇の全国への巡幸をすすめる内容のメッセージが届けられました。GHQは天皇自らが国民を励ますことで混乱した社会を安定させることが出来ると考えたのです。木下からGHQの意向を聞いた昭和天皇は、大いに同意したと言います。そして巡幸が始まりました。

 

 

戦後初めて背広姿で国民の前に現れた天皇を、みな黙ってお辞儀をして迎えました。巡幸は東京・千葉など関東各地に広がっていきました。重点的に訪れたのは復興の要となる農村や工場。そして将来を担う子供たちのもとでした。

 

巡幸を繰り返すうち昭和天皇に変化があらわれてきました。昭和天皇は全国を一巡する目標を立てるほど積極的になっていったのです。当初、静かにお辞儀をして迎えた国民も自然と万歳が起きるようになりました。

 

1948年、2年あまりに及んだ東京裁判が最終局面を迎えてました。被告への厳しい判決が予想される中、訴追されなかった昭和天皇にも道義的責任があるとの見方が出てきました。東京大学教授の横田喜三郎は「退位して責任を取るべきだ」とする天皇退位論を新聞に寄稿。天皇の協力のもとに占領政策を進めてきたマッカーサーは退位論に懸念を抱いていました。11月12日、いわゆるA級戦犯のうち7人に死刑が宣告されました。

 

 

1947年5月3日に日本国憲法が施行され、日本国内では独立を求める声が高まっていきました。この頃、マッカーサーは記者会見で日本との早期講和を提唱。占領の終結を示唆していました。

 

新憲法下で生まれた最初の内閣で連合国との交渉を担当したのが、外務大臣の芦田均です。この頃、芦田は昭和天皇から外交の状況を説明するよう求められていました。拝謁した芦田に対し昭和天皇は講和の前提となる国際情勢について質問しました。

 

当時、東西冷戦が急速に進みヨーロッパではソビエトによってポーランドが共産化。さらに中国大陸では国民党と共産党の内戦が激化。共産主義が勢力を拡大していました。昭和天皇は独立に向けて西側陣営と協調すべきだとの考えを示しました。

 

マッカーサーが極東防衛の拠点と位置づけていたのが沖縄でした。当時、アメリカ軍の支配下にあり住民の土地は次々と基地に姿を変えていました。講和にあたり当初、芦田は沖縄の返還を主張。しかしGHQは要求に応じず、マッカーサーは沖縄を日本から切り離しアメリカ軍が駐留し続けるべきだと主張しました。

 

1949年10月、内戦に勝利した中国共産党が中華人民共和国を建国。翌年には朝鮮戦争が勃発。東西の対立はついに戦争に発展しました。国内では平和を求め東西両陣営と講和をするべきという声も高まっていました。しかし、アメリカは日本を反共産主義の防波堤と位置付け西側諸国との講和を急ぎました。

 

1951年、日本はサンフランシスコ平和条約に調印。同時に沖縄は日本から分離されました。敗戦から7年、ようやく占領は終わりました。

 

日本が独立した年、18歳になった皇太子、今の天皇陛下の立太子礼が執り行われました。新生日本の象徴に人々は沸き立ちました。翌年、皇太子はイギリスのエリザベス女王の戴冠式に出席。日本が国際社会に復帰したことを印象付けました。

 

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戦後70年ニッポンの肖像 日本人と象徴天皇
第1回 “戦後”はこうして誕生した

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