岡田眞澄さんは1972年、女優・藤田みどりさんと結婚。3人の子宝に恵まれ、1983年にベストファーザー賞を受賞するなど良き父の代名詞となりました。週刊誌の家族特集では決まって登場し、親子そろってテレビ番組にも次々登場しました。
しかし、そんなセレブなイメージは真っ赤な嘘で全てが作られた絵空事だったと岡田眞澄さんの長男・岡田眞善(おかだしんぜん)さんは言います。
セレブは嘘だった!?
映画で華々しいデビューを飾り、とんとん拍子にスターへの階段をのぼっていった岡田眞澄さんでしたが、次第に映画産業が下火になったことで舞台俳優へ転身し収入が激減。映画時代の収入で建てた都内の一等地にある豪邸に住み、マスコミにはまるで海外ドラマのような生活を披露していましたが、実は家計は火の車だったと言います。
しかし、岡田眞澄さんは俳優としてのイメージを守るためマスコミの前ではセレブな家族を演じさせていたのです。
雑誌の記事で披露していた豪勢な食卓も嘘で、日々の食事はご飯と味噌汁にお新香とほうれん草のおひたしといった精進料理のような質素なものでした。
また、家族写真ではセレブらしくブランド物のパリっとした洋服で写っていましたが、衣装は全てレンタルでした。実際は服を買う余裕もなく3兄弟でお古を着まわしていくのが当たり前でした。さらには、工作をしようにも糊を買ってもらえなかったため、ご飯粒を糊代わりにしたと言います。
そんな中、岡田眞澄さんが子供たちに強要していた最も手のこんでいた嘘が高級車偽装。セレブなイメージからパーティーや式典に呼ばれることが多かった岡田眞澄さん。そんな時には決まって運転手付きの高級車で会場入りしていたのですが、岡田眞澄さんの愛車は中古の軽自動車。セレブのイメージを守るため会場近くまで愛車で乗りつけ、たった50mの距離を高級車のハイヤーで会場入りしていたのです。
再ブレイク
しかし、1988年に「仮面ライダー」でファンファン大佐を演じ再ブレイク。テレビ番組にひっぱりだこに。注目度が上がった岡田眞澄さんはベストドレッサー賞、ジュエリーベストドレッサー賞など次々栄誉を手に入れていきました。
収入が増えたのと同時に芸能人としてのステータスも急上昇。すると岡田眞澄さんは上がりに上がったイメージを守るため宝石や洋服に莫大な投資をするようになりました。
家族は貧乏暮らし
しかし、その裏では家にほとんど稼ぎを入れず家族は貧乏暮らしを強いられていました。そんな中、家計を支えていたのは大学生になった岡田眞善さん。アルバイトを掛け持ちし月に19~23万円稼いでいたそうです。
一方で、父はセレブなイメージを守るため夜な夜なパーティーを主催し次第に家に帰らなくなっていたと言います。
父を軽蔑しながらも外部には一切不満をもらさず俳優の息子として良き親子を演じ続けた岡田眞善さんですが、その思いははかなくも裏切られることになりました。
離婚 絶縁状態に
1994年、父と母が離婚。なんと、それまで自らを支えてくれた家族を捨て、岡田眞澄さんは突然家を去ったのです。
それからわずか1年後、岡田眞澄さんは再婚を発表。発表の場では自分のイメージを守るため、新生活を息子や元妻が応援しているというエピソードをでっちあげました。
この一件で親子関係はついに修復できないほど泥沼化。その後も絶縁状態が続き、2006年に岡田眞澄さんが死去。葬儀の場で岡田眞善さんは父を批判。しかし、その言葉の裏には父への憎しみよりも父に対する尊敬ともいえる思いがありました。
最期まで俳優であり続けた岡田眞澄
岡田眞澄さんの死の直前に見舞いに訪れた岡田眞善さん。そこには末期がんの苦しみに耐え息を切らす父の姿がありました。しかし、看護士に話を聞くと「入院しててもいつもダンディ」との言葉が。そして舞台の上のようにガウンを身にまとい颯爽と廊下を歩く父の姿を目撃しました。
岡田眞澄さんは息もできない苦しい末期がんの状態でも、人前では岡田眞澄としてのイメージをかたくなに守り続けていたのです。
そして、みんなが見守る死の直前であっても岡田眞澄さんはその姿勢を貫き通しました。意識が遠のき話すこともままならなくなっていたのに、残された力を振り絞り親指をたて「GOOD LUCK」のポーズをしました。どこまでも俳優・岡田眞澄を貫きこの世を後にしたのです。
息子・岡田眞善さんも現在はラジオパーソナリティのほか俳優としても活動しています。父と同じ立場に身をおくようになった今は、父の行動がより理解できるようになったと言います。
最期まで俳優であり続けた父・岡田眞澄さん。その生き様を胸に刻み、岡田眞善さんは父の後ろ姿を追っています。
「爆報!THEフライデー」
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