ポンペイ 骨が語る真実|地球ドラマチック

NHK・Eテレの「地球ドラマチック」でポンペイ 骨が語る真実が放送されました。今から約2000年前、イタリアのベスビオ山が大噴火しました。火山灰や有毒なガスが麓の街ポンペイを直撃し多く人々の命を奪いました。大混乱の最中、54人が地下室に逃げ込みました。財宝を握りしめる人、着の身着のままの人。しかし悲劇は彼らにも容赦なく襲い掛かりました。54体の人骨が物語るポンペイの最後の一日に迫ります。

 

人気のリゾート地!

ヴェスヴィオ山は西暦79年に大噴火を起こしました。麓にはポンペイやヘルラクラネウムなど古代ローマの都市が栄えていました。しかし、大噴火によって都市は壊滅し歴史から消え去りました。ポンペイは南イタリアのナポリ湾沿岸にありました。ベスビオ山はたった一晩でポンペイの街とそこに暮らす人々をあつい火山灰で覆いつくしたのです。発掘によって街が姿を現したのは19世紀のこと。噴火の前、ポンペイの人口は約1万2000人。貴族が奴隷を従え、商人が商いに精を出す活気に満ちた街でした。豊かな海沿いに築かれたポンペイはローマ帝国の中でも指折りの風光明媚のリゾート地でした。貴族や大富豪たちはこぞって豪華絢爛な別荘をかまえました。

オプロンティス荘と呼ばれる当時の邸宅の一部が残っています。ローマ皇帝ネロの妻の別荘だったとも言われています。部屋の数は100以上あり、天井や壁にはフレスコ画が描かれ、珍しい顔料がふんだんに使われています。発掘された建物は当時ポンペイで裕福な人たちが贅沢な暮らしを送っていたことを示しています。ポンペイは都市としての機能性に優れていました。道路の下には当時最先端の水道システムが完備されていました。街路や建物は計画的に配置され街並みは洗練されていました。多くの家や店、酒場、円形闘技場がありました。しかし西暦79年、全てが突然終わりをむかえました。

 

西暦79年の大噴火

ベスビオ山からの大量の火山灰に埋もれたポンペイはそのまま時を止めることになりました。降り積もった火山灰によって街は跡形もなく消え、存在すら忘れ去られていきました。19世紀、最初の大規模な発掘が行われポンペイの街が灰の中から現れました。このとき、火山灰の中に閉じ込められた数百人の犠牲者の痕跡が発見されました。遺体が腐敗し人型だけが残ったのです。考古学者たちは灰の中の空洞に石膏を流し込み、人々の最期の瞬間を蘇らせました。こうしてポンペイの悲劇は世界的に知られるようになりました。しかし、石膏でかたどったさい空洞の内部にわずかに残っていた骨が損なわれてしまいました。骨が残っていれば現代の科学によって多くの事実が明かされたでしょう。ポンペイの人々の暮らしを知るための重要な手がかりが失われてしまったのです。

 

発見!54体の人骨

しかし、後に画期的な発見がありました。オプロンティス荘の近くで発見された地下室から54体の人骨が見つかったのです。骨が完全な状態で見つかったことで当時の食生活や健康状態など、これまで知りえなかった事実が明らかになる可能性があります。法医学の専門家による調査が始まりました。骨から見えてくるのはポンペイの人々の暮らしです。

 

噴火の前兆!大地震

西暦79年8月中旬、ポンペイでは地震が起こりました。それは間もなく起きる大災害の前触れでしたが、ポンペイの人々は知るよしもありませんでした。地震の痕跡はオプロンティス荘にも残されています。イタリアは地震の多い地域です。イタリアの南の海底でアフリカプレートとユーラシアプレートがぶつかり合っているからです。地質学的に不安定な地盤はベスビオ山の噴火を引き起こすことになりました。

当時のポンペイの人々は火山地帯であることは知っていましたが、ベスビオ山が火山だとは思っていませんでした。なぜならベスビオ山はそれまで何世紀も噴火したことがなかったからです。だからこそ大地震が起きても噴火の予兆だという危機意識を持たなかったのです。

 

なぜ逃げなかった?

西暦79年8月、ポンペイを襲った大地震は耐震設計など施されていない当時の建物に大きなダメージを与えました。地震から噴火まで1週間余り。その間の行動が人々の運命を左右することになりました。地震の直後、ポンペイでは約半数の住民が荷物をまとめて街から避難しました。しかし、建物が倒壊し治安が悪化してもなお半数の人は街にとどまりました。その中には地下室で骨となって発見された54人もいました。

地震の直後のポンペイでは略奪が横行しました。地震の後、何千人もの人が街にとどまったのは大切な財産を守るためだったのかもしれません。また財産を持たない奴隷は主人の命令で否応なくこの地にとどまったのかもしれません。様々な境遇の人々が街に残り噴火と共に最後をむかえることになりました。

 

グリーンマンの正体は?

地下室で発見された54人の骨から街に残った人々の姿が明らかになってきました。54人は地下室の中で2つのグループに分かれていました。片側には着の身着のままの人々。もう一方のグループはかなり裕福な人々でした。とりわけ1組の男女が沢山の財宝を身に着けていました。宝飾品の多くにはエメラルドがあしらわれていました。さらに101枚の金貨。宝飾品を身に着けていた女性の骨は緑色に染まっていたためグリーンレディと名付けられました。宝飾品のせいで骨に金属反応が起きたため緑色になっていました。グリーンレディの近くにいた男性の骨はさらに濃い緑色でした。グリーンマンと名付けられました。グリーマンは54人の中でも重要な人物であったと思われます。地下室には彼の正体につながる2つのヒントがありました。一つは金庫です。金細工で植物の模様を施した豪華な品です。発見されたとき金庫は空でした。つまり街がパニック状態になった時、金庫の持ち主である商人は中身をとりだし持って逃げたのです。だから金庫には何もなかったのです。金庫には肝心な所有者の名前はありませんでしたが、すぐそばに2つめのヒントがありました。印鑑です。印鑑にはルキウス・クラッシウス・テルティウスという男性の名前がありました。

 

グリーンマンは豪商

印鑑にはアンフォラの模様が刻まれていました。印鑑の近くにはグリーンマンの骨がありました。グリーンマンはクラッシウスという名前の有力な商人であった可能性が大きくなりました。地震の後、クラッシウスには商いの仕事があり屋敷や財産がありました。それらを守るために街にとどまったとしても不思議ではありません。

 

グリーンレディの正体は?

ではグリーンマンのそばにいた若い女性グリーンレディはどのような人物だったのでしょうか?ヒントは骨にありました。グリーンレディの骨盤の中には胎児の骨がありました。出産間近だったと思われます。出産間近のグリーンレディが街を出るのは難しかったと思われます。

 

さまざまな身分

ポンペイにとどまった人々はすぐに崩れた建物の修復にとりかかりました。街は活気を取り戻したかに見えました。大量の硬貨が地下室の骨の近くで見つかりました。興味深いのは金貨や銀貨ではなく全て小銭だという点です。小銭を沢山扱う食堂や酒場の店主だったのかもしれません。他にも特徴的な骨があります。ある若者は2つの指輪と剣を身に着けていました。治安が悪化した街で武装していたのでしょう。骨格が特徴的な人物もいました。25~30歳くらいのアフリカ系男性です。宝飾品のせいで骨が緑色に変化しているため奴隷ではないと考えられています。ローマ帝国では奴隷は人種とは関係ありませんでした。また奴隷の中には自由な身分になり社会的、経済的に成功をおさめる人も多くいました。

 

ゆるやかな奴隷制度

ヘルクラネウムもまたベスビオ山の噴火によって火山灰に埋もれました。発掘によって街の住人の4分の3は奴隷出身であったことが分かってきました。古代ローマの奴隷制度は独特で、後のアメリカの奴隷制度とはまるで違います。ただ自由な身分にだけではありません。市民としての権利を手に入れ地位や名声、大きな富を得ることも可能でした。ヘルクラネウムで発掘された家の表札にはマルクス・ノニウス。調査によって当時この街には同じ名前の人が25人以上いたことが分かりました。古代ローマでは解放された奴隷がかつての主人の名前を名乗る習慣がありました。富豪マルクス・ノニウスの奴隷だった人たちは自由を得た名誉の証を名前によって示していたのです。奴隷から自由の身になった人がかなりいたことになります。

 

豊かな食生活

古代ローマの都市は下水道を完備し、排泄物は道路の下を流れる仕組みになっていました。古代の人々の排泄物もまた当時の人々の暮らしを物語ります。分析の結果、当時の標準的な人々がバラエティに富んだモノを食べていたことが確認されました。

 

噴火直前の断水

西暦79年のポンペイでは食料は十分にいきわたっていたようです。しかし地震から噴火までの1週間、人々は突然水不足の事態に直面しました。街を潤す水源から水が届かなくなったのです。ポンペイの水道システムは麻痺しました。水不足は裕福な人の暮らしにも影響を及ぼしました。公衆浴場は使えなくなり各家庭への水の供給も途絶え、公共の泉も断水により干上がってしまいました。水道管をとりはずし、問題の原因を探っていた形跡があります。しかし、修理する時間は残されていませんでした。ポンペイでは8月の気温は40℃近くになります。水道が使えなくなった街の人たちは生活の困難を何とかしのいでいました。

 

灰に覆われた町

それでも多くの人は事態を楽観的に考えていたようです。8月のある日、円形闘技場で夏の試合が行われ大勢の観客がつめかけました。そして西暦79年8月24日の午後1時頃、観客はベスビオ山の山頂に巨大な灰の柱を見ました。もうもうと立ち上る煙は高さ30km以上ありました。誰一人どうすれば生き延びられるか知りませんでした。そして、わずか12時間後にはポンペイの町は終わりをむかえたのです。ベスビオ山は何百年も噴火していなかったため当時の人はそれが火山であることを知りませんでした。噴火によって何千メートルも上空に飛ばされた火山礫が人々の頭上に雨のように降り注ぎました。人の命を奪うほどの大きな岩石も落ちてきました。

噴火から数時間、混乱を極める町の通りでは群衆に押しつぶされ命を落とす人がいました。火山灰の雨は勢いを増し夕方には毒を含んだ噴煙で窒息する人が現れ始めました。町を出るのを諦め、建物の中に避難した人たちもいました。しかし降り積もる堆積物の重みで倒壊する建物が続出しました。

クラッシウスは夜になる前に地下へ逃げました。地下室はトンネルのような形状で頑丈な作りをしていました。ここなら地上の建物が倒壊しても無事でいられるかもしれません。さらに友人や隣人、仕事仲間たちが地下室に逃げ込んできました。

 

地下室へ 54人の選択

その夜、地下室には54人の人々が避難していました。裕福な人も貧しい人も若者も老人もいました。その頃、火山灰の雲はベスビオ山の周囲30km四方に及び、ポンペイやヘラクラネウムの町では火山灰や石が1時間に120cmも積もっていました。噴火の前、2つの町は美しい海辺にありました。しかし、大量の火山灰によって海岸線は沖合に移動しました。発掘された町は400m内陸にあり、厚さ20mの火山灰で埋もれていました。

 

火砕流が町を襲う

地下室に避難した人々は外で何が起きているか分かりませんでした。噴火は最終段階に入ろうとしていました。54人は噴火から最初の12時間を生き延びましたが、運命の時は彼らにも近づいていました。真夜中、ベスビオ山から火砕流が猛烈なスピードで流れ出しました。火砕流はポンペイとヘルクラネウムを直撃。午前1時頃、火砕流がポンペイを襲い地上のあらゆるものを一瞬で焼き尽くしました。

 

54人の最期

地下室の54人はどのような最期をむかえたのでしょうか?54人は火砕流を浴びた形跡はありません。頑丈な地下室は建物を襲った火砕流から54人を守りました。しかし、充満する有毒なガスは避けられませんでした。人々は呼吸ができなくなり、亡くなりました。54人の死因は窒息死でした。息が絶えてから降り積もる火山灰に覆われたのです。

 

POMPEII CELLAR OF SKELETONS
(イギリス 2010年)




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