1930年代、ドイツに反ユダヤ主義の嵐が吹き荒れました。ナチスドイツのベルリンで、あるユダヤ人学校が子供たちの避難場所となりました。ユダヤ人の子供たちのために立ち上がったのは、若い女性教師でした。
広がる反ユダヤ主義
ヴォルフ・エルストンさん(84歳)は、ベルリン生まれのユダヤ人です。当時、ヒトラー青少年団という放課後の課外活動がありましたが、彼だけが入っていませんでした。
学校からの帰り道、年上の少年たちに道をふさがれ「おまえはユダヤ人だろう」と言われ暴行を受けました。
1933年、ドイツでアドルフ・ヒトラーが首相に就任。間もなく独裁体制をしきました。ヒトラーが率いるナチスは、ユダヤ人を差別する反ユダヤ主義を掲げユダヤ人排除を進めていきました。
ヒトラーが台頭するまで、ドイツにいるユダヤ人はドイツ国民としてごく普通に暮らしていました。当時ベルリンには学校に通うユダヤ人の子供たちが2万7000人いました。ところが、ヒトラーが率いるナチス・ドイツではユダヤ人は忌み嫌われ居場所を失っていきました。
反ユダヤ主義は、子供たちが通う学校の教室にも持ち込まれました。生徒たちは「血と名誉」と呼ばれたナチスの歌を歌わされ、何もかもがナチス色に染まり、ユダヤ人の生徒たちに対するイジメや差別は激しくなる一方でした。
差別はユダヤ人の教師にも及びました。レオノラ・ゴールドシュミットは、11年の経験を持つ教師でしたが、ユダヤ人であったため解雇されました。
アメリカ人映画製作者
1937年、ナチスは政治的宣伝映画を作るためアメリカ人の映画製作者ジュリアン・ブライアンを雇い入れました。ブライアンは様々な場所に自由に出入りすることを許されましたが、軍事力の増強や反ユダヤ主義を表すようなものは一切撮影しないよう厳しく命じられました。
しかし、ブライアンは次第にナチスが撮影を許さないユダヤ人迫害の事実に目を向け始めます。そして、この国で本当は何が起こっているのかを世界に示そうと決意しました。
いじめられる子供たち
ナチスによるユダヤ人迫害は、ドイツに住むユダヤ人の子供たちにも及びました。学校はナチスの思想を植えつけるための場所に変貌。子供たちは、授業でユダヤ人はドイツ人よりも劣るのだと教え込まれました。
そうした中で、レオノラ・ゴールドシュミットはユダヤ人の子供たちのために新しい学校を立ち上げようと奮闘していました。ユダヤ人の子供のための学校を設立するためには、乗り越えなくてはならないいくつもの壁がありました。
学校設立へ
新しい学校を作るには、膨大な資金と学校にふさわしい建物が必要でした。
1934年、レオノラの親戚がナチスの親衛隊に殺害され、レオノラは遺産を相続。遺産の一部であるベルリンの邸宅を使用することで学校の建物は用意できました。
しかし、肝心の学校設立の許可はなかなか下りませんでした。法律上、ユダヤ人教師が一度に教えられる生徒の数は5人までと決められていました。そこで、解雇された5人の教師を集め、25人の生徒を教える学校を設立すると申請。
1935年、ついに申請が認められベルリン郊外にユダヤ人学校「ゴールドシュミット・スクール」が開校したのです。
学校に通う25人の生徒たちは、6~18歳まで。レオノラは生徒たちの希望の光でした。
移住のために英語を!
一方、ユダヤ人への迫害はさらに強まっていきました。学校の開校と同じ1935年、ナチスは「ニュルンベルク法」と呼ばれる反ユダヤ主義の法律を作りました。ユダヤ人は国民としての権利を奪われたのです。
レオノラは将来、生徒たちが迫害を逃れて国外へ移住することを想定し、英語教育に力を入れました。問題は、協力してくれる英語教師を見つけることでした。
レオノラはイギリス大使館に相談し、フィリップ・ウーリーという若い教員を雇いました。1936年、ロンドンから到着したウーリーはドイツ語をほとんど話せませんでした。
学校に特別な地位を!
レオノラが次に目指したのは、自分の学校でイギリスのケンブリッジ大学への入学試験を受けられるようにすることでした。そうすれば、教え子たちが国外の学校へ進学しやすくなるからです。
ただし、認可を受けるにはドイツの教育界で有力な人物に協力を仰ぐ必要がありました。
そこで、レオノラはドイツ教育省のワルター・ヒュブナーに手紙を書きました。ヒュブナーは、かつてレオノラがベルリンの大学で指導を受けた教授で教員免許を取得したさいの試験監でもありました。
ヒュブナーは、ナチスに睨まれる危険を承知で申し出を受け入れ、1937年3月ゴールドシュミットスクールはケンブリッジ大学の入学試験を受けられるドイツでも数少ない学校の1つとして認定されました。
アメリカ人が撮った迫害
ナチスはユダヤ人への迫害を他の国に知られないようにつとめましたが、その頃アメリカの映画製作者ジュリアン・ブライアンは真実を暴くための撮影を密かに開始していました。
1937年の夏、ブライアンは7週間かけて撮影のためにドイツ各地を回りました。ベルリンで彼はユダヤ人学校のゴールドシュミットスクールを訪れています。
彼はユダヤ人の子供たちがナチスドイツでは生きられなくなることを恐れ、自分が撮った映像を世界に公表することを決意。そのためには、撮影したフィルムをドイツ国外に持ち出さなけばなりません。もしフィルムがナチスに見つかれば、厳罰に処せされる恐れがありました。
アメリカに帰国したブライアンは、ドキュメンタリー映画の制作にとりかかりました。そして1938年、「ナチス・ドイツの内側」という映画がニューヨークで公開され何百万人もの観客を動員。
しかし、歴史はブライアンが望む方向には動きませんでした。ドイツに対する外交上の制裁はさほどとられなかったのです。
迫る命の危険
1938年3月、ヒトラー率いるドイツ軍がオーストリアを併合。ウィーンの街ではユダヤ人への迫害があからさまに行われるように。オーストリアとドイツのユダヤ人にとって未来は恐怖に満ちていました。
1938年11月9日の夜、ナチスが何百ものユダヤ人の住宅や商店、ユダヤ教の施設を襲撃しました。「水晶の夜」と呼ばれる事件です。3万人ものユダヤ人の男性が逮捕され強制収容所に送られました。
学校を売却!?
レオノラは、夫がすぐにでも逃げられるように準備し学校へ急ぎました。たった一晩でユダヤ人が所有する何百もの建物が破壊されました。それでも学校の建物は奇跡的に無事でした。
安全のためレオノラは子供たちを家に帰し、イギリス人のウーリー先生に学校を譲りたいとイギリス大使館に話しました。学校がイギリス人の所有物になれば、ナチスによる破壊を免れるだろうと考えたからです。
こうしてゴールドシュミットスクールは破壊を免れました。しかし、ユダヤ人への迫害は続きました。
生き残るため国外へ
水晶の夜の翌日、レオノラは知人からの電話で夫が逮捕されそうだと知りました。夫はイギリスのビザを取得しドイツを離れることが出来ました。ドイツのユダヤ人の多くが、もはや生き延びる道はドイツを脱出するしかないと考え始めていました。
しかし、1938年にはユダヤ人は国を出ることすら難しくなっていました。経済恐慌が続き、反ユダヤ主義は世界各地に飛び火していたからです。アメリカも受け入れには消極的でした。
子供たちの命を守る
レオノラは、生徒たちを国外へ脱出させるために奔走していました。レオノラとイギリスに脱出した夫が考えたのは、イギリスにゴールドシュミットスクールの分校を開くことでした。
2人はユダヤ人を支援するイギリスの団体に資金援助を求めました。しかし、あまり良い返事は得られませんでした。
1938年の末、子供たちの未来に暗雲がたれこめていました。レオノラは援助してくれそうな所には全て嘆願の手紙を送りました。しかし、教え子とその家族が移住するための資金を確保することは出来ませんでした。その間も多くのユダヤ人が連行されていて、もはや一刻の猶予もありませんでした。
そんな中、一つだけ選択肢がありました。イギリス政府は子供だけの受け入れを認めていたのです。イギリスにあるユダヤ人支援団体が、ユダヤ人の子供の移住計画を進めていました。
9000人以上の子供が親元を離れてイギリスに渡っていきました。運よく家族と共に国外に逃れた生徒もいました。
そして1939年7月、レオノラもドイツを出国。間もなくイギリスで第二のゴールドシュミットスクールが開校しました。
その直後、イギリスはドイツに対して宣戦布告。第二次世界大戦が始まったのです。ベルリンのゴールドシュミットスクールのドアは永遠に閉じられました。
守りきった命
幸いにも当時の生徒たちのほとんどが、恐ろしい時代を生き延びることが出来ました。
その後、レオノラ・ゴールドシュミットはイギリスで長いあいだ教職をつとめ、1983年に亡くなりました。85歳でした。
彼女の生徒だったヴォルフ・エルストンは、イギリスからアメリカに渡って両親に再会。地質学の教授になりました。
マーゴット・セガール・ブランクは、家族と共にオーストラリアに移住し、その後アメリカで小児科医になり人権擁護活動を行っています。
マリオン・ハウスは、イギリスに逃れ現在はニューヨークでユダヤ人の戦争被害者を支援しています。
エヴァ・サーモウは、家族と共にアメリカに渡り教育分野で働いてきました。
私は生徒たちとの心の触れ合いに恵まれてきました。自分を慕ってくれる人たちの愛情ほど心満たされるものはないと、子供たちから教わったのです。
(レオノアの手記より)
THE TEACHER WHO DEFIED HITLER
(ドイツ 2012年)
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