武田勝頼 ~若きプリンスの愛と苦悩~|歴史秘話ヒストリア

武田勝頼

わたしは敵の子!?

天文15年(1546年)、勝頼は武田信玄の四男として生まれました。しかし、産まれた年と、四男なので四郎と呼ばれていたということ以外、幼い頃の記録は残っていません。その理由はの諏訪御料人(すわごりょうにん)にあったと言われています。

 

当時、武田信玄は領土を広げるため周りの領主を次々と攻め滅ぼしていました。四郎の母はそんな信玄に滅ぼされた諏訪家から連れて来られ側室となったため、武田家の敵として警戒されていたのです。疑いの目は子供である四郎にも向けられました。

 

元服した四郎は新たな名前「諱(いみな)」が信玄から告げられました。それは勝頼(かつより)というもの。「頼」の字は母の実家である諏訪家が代々名乗ってきたもの。武田家の男が用いてきた「信」の字をもらうことは出来ませんでした。父である信玄にも武田の人間とは認めてもらえなかったのです。

 

さらに、家からも出され、母の実家を継ぐように命じられました。新たな領地として勝頼が移り住んだのは高遠でした。

 

ところが永禄10年(1567年)22歳の時に転機が訪れました。一度は武田の家を出された勝頼が、突然跡継ぎ候補になったのです。実はこの裏には、家を揺るがす大事件が絡んでいました。

 

武田家を継ぐはずだった長男・義信が信玄と対立し、信玄の暗殺まで企てました。これに激怒した信玄は、義信を幽閉し自害に追い込んでしまいました。また、次男は幼い頃に失明して出家。三男は早くに亡くなっていました。正室の子が他にいないため側室の子である勝頼が一躍跡継ぎ候補の中の一番手になったのです。

 

しかし、武田家には信玄の弟や甥など家を継げる男子は幾人もいたため、勝頼がすんなり次の武田家の当主になれる状況ではありませんでした。

 

永禄12年(1569年)、勝頼は北条家との戦いで囮を命じられました。一歩間違えば命を落としかねない危険な役目でした。戦いは勝頼のおかげで大勝利。勝頼の働きを見た信玄はこう言葉を残しています。

 

勝頼はむやみに城へ攻めかかる。見ているこちらの方が恐ろしいほどであったが、ついには敵将を残らず討ち取った。とても人のできることではない。

 

父に実力を認められた勝頼は、次の戦では信玄につぐ副将に大抜擢されました。敵は武田家最大のライバル織田信長です。

 

ところが、信玄が重い病で倒れてしまいました。そして、信玄は勝頼を陣代(じんだい)であると告げました。陣代とは仮の当主のこと。勝頼は武田家の正当な後継者としては認められなかったのです。

 

武田家の正式な跡継ぎとして指名されたのは勝頼の子・信勝(のぶかつ)でした。この時、信勝はわずか7歳。16歳になったら家督を継がせるよう信玄は命じました。それまでの9年間、いわばつなぎを務めるのが陣代・勝頼の役割だったのです。

 

偉大なる父との決別

信玄の遺言は「三年の間わしが死んだことを悟らせるな」という不思議なものでした。信玄はこれまで領土を広げようと隣の国々を攻めたため周囲は敵ばかりでした。信玄の死を知れば攻め込まれます。そうさせないよう3年の猶予で武田の態勢を整えよというものでした。

 

しかし、周りの戦国大名たちは武田軍が急に戦いをやめたのを不審に思い、その理由を探り始めました。そして、徳川家康は武田領の駿河を攻め町に火をかけましたが、武田軍は反撃してきませんでした。このことは、徳川家康と同盟を組む織田信長にも伝わりました。

 

間もなく、信長と家康は3万8000の大軍で武田領に攻め込んできました。迎え討つ勝頼の軍勢は1万5000でした。

 

天正3年5月21日、長篠で合戦が始まりました。大敗した勝頼は信玄から受け継いだ領地の一部を失ってしまいました。勢いにのる信長と家康は一気に武田を滅ぼそうと動き始めました。

 

勝頼が目をつけたのは、東の大国・北条家でした。北条と同盟を結ぶことができれば織田・徳川に対抗しうる一大勢力が誕生します。とはいえ信玄の頃から争いが絶えなかった北条家と今更同盟など至難の業でした。勝頼は苦しい状況を正直に伝え、同盟を懇願。武田家を守るためプライドを捨て頭を下げたのです。

 

翌年、北条家当主の妹が勝頼のもとへ嫁いできました。この婚姻によって両家は堅い絆で結ばれたのです。武田・北条という巨大連合の誕生を前に、織田・徳川は簡単には攻められなくなりました。そして信玄以来続いてきた武田家の戦いはおさまり、甲斐に平和がもたらされました。

 

勝頼は陣代として見事武田家をまとめあげ、国を守るという使命を果たすことができたのです。

 

愛する家族を守れ!

幼い頃に母を亡くし父には家を追われた勝頼は、20歳の時に結婚した相手とは2年で死に別れていました。それから10年、妻・北条夫人との新たな生活は勝頼がようやく手に入れた家族との暮らしでした。

 

結婚して間もなく、勝頼は妻を伴って諏訪を訪れました。さらに、諏訪大社の祭礼に妻を連れていきました。当時、こうした儀式に夫婦一緒に参列するのは大変珍しいことでした。しかし、幸せな時間は長くは続きませんでした。

 

結婚から2年後、北条家が同盟を一方的に破棄してきたのです。しかも、織田・徳川と手を結んだのです。当時、実家が敵にまわった妻をそのまま家に置いておくのは危険なことでした。しかし、勝頼は妻を北条家に返すことはしませんでした。

 

天正10年2月、織田信長が5万もの大軍で武田の領国に攻めてきました。迎え討つ武田軍は1万5000あまり。兵力ではるかに劣る勝頼は地の利を生かした作戦を考えました。

 

織田信長織田信長

 

信長との決戦がまさに始まろうとした時、浅間山が噴火。「甲斐や信濃が滅ぶ時、浅間山が噴火する」と当時は信じられていました。武田軍の家臣や兵士に動揺が走り、味方の逃亡家臣の寝返りで武田軍は総崩れに。新府城に戻った時には兵士は1000人になっていました。

 

勝頼の決断は家族や家臣を伴って落ちのび、再起をはかるというものでした。そして女、子供も連れた700人余りの逃避行が始まりました。出発から8日後、国境の山の麓まで辿り着きましたが、とうとう織田軍に囲まれていました。そして天正10年3月11日、武田勝頼は愛する家族と共に戦場の露と消えました。

 

勝頼の死から1か月後、高野山に一人の僧侶がやってきました。たずさえていたのは勝頼とその家族の肖像画でした。「自分と家族一緒に供養してほしい」それが勝頼の遺言でした。勝頼の墓の左右に寄り添うようにたっているのは北条夫人と息子・信勝の墓です。

 

武田家の陣代として力の限りを尽くした武田勝頼は、今も愛する家族と共に静かに眠っています。

 

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偉大なる父・信玄よ!
~若きプリンス 武田勝頼の愛と苦悩~

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