本能寺の変 織田信長最期の3日間|歴史秘話ヒストリア

NHK総合テレビの「歴史秘話ヒストリア」で女中は見た!!~本能寺の変・信長最期の3日間~が放送されました。

 

公家は見た! 信長最後のパフィーマンス

天正10年(1582年)、織田信長は初陣以来35年も戦い続け、ついに天下取りに王手をかけようとしていました。本能寺の変の2ヶ月前、信長は戦の帰りに駿河に寄り道し富士山を見ています。実は信長が富士山を見たのは初めてのことでした。本能寺の変の2日前、織田信長は中国地方を制圧するため本拠地・安土を出陣。この一報に京都はあわただしくなりました。公家たちは都から一山越えた山科まで出迎えに行ったのです。いずれも大臣クラスの公家たちで、織田信長への気のつかいようはただならぬものでした。ところが織田信長はなかなか現れず、やがて待ちに待った信長の使いがやってきました。ようやく信長と対面かと思ったところ「出迎えは無用」と言われてしまったのです。長々と待たせたあげく会う気はないという無礼な仕打ち。とはいえ信長相手に抗議するわけにもいきませんでした。公家は元来た道を引き返しました。信長はそれを見計らうかのように京都での定宿・本能寺に入りました。なぜ信長は公家にこのような態度をとったのでしょうか?

 

本能寺の変前日、前日追い返された公家たちは今度は信長から本能寺に呼び出されました。そして信長は自慢の茶器を38個も本能寺に持ち込み、公家たちに披露しました。信長は持ち主の大名を打ち負かして奪い取ったり、財力にものを言わせて強引に買い取ったり、欲しいと思った名品は手段を選ばず日本中からかき集めました。高価な茶器の背後に見え隠れする信長の強大な力に公家たちは圧倒されました。「この世の全ては俺のもの」という信長ならではの強烈なアピールでしたが、これが人生最後のパフォーマンスになりました。

 

その夜、信長が開いた宴で家臣たちは昼間公家に見せたものとは全く違う信長の顔を目撃しました。そこにいたのは小姓など戦働きよりも身の回りの世話をする信長お気に入りの家臣たち。彼らは信長に意外な言葉をかけられました。それは自分に尽くしてくれた家臣一人一人に対する感謝の言葉でした。政治や軍事とは無縁の身近な信頼で繋がれた側近だけが垣間見た信長の知られざる素顔でした。

 

その頃、都の近くでは信長が信頼していたはずの家臣・明智光秀(あけちみつひで)が出陣しようとしていました。

 

女中は見た!信長涙のメッセージ

6月2日未明、約1万人の明智軍が信長の首を狙い本能寺へ押し寄せました。光秀の謀反と知った信長は「是非に及ばず(やむを得ない)」とつぶやきました。100倍もの敵に信長勢はまさに多勢に無勢。そんな中、信長が自ら果敢に戦う姿が目撃されています。絶望的な戦いの中、信長は決してあきらめなかったのです。戦場には信長の側に仕える側近たちもいました。信長は自分のために戦い散っていった家臣たちの姿を見届けると奥へと一人姿を消しました。やがて本能寺は炎に包まれました。炎の中、逃げ遅れた女中たちが信長を目撃しています。死を覚悟する彼女たちに「女はここで死ぬ必要はない。急いで逃げよ」と言いました。これが信長が残した最期のメッセージです。信長は炎の中、自ら命を絶ったと考えられています。

 

僧侶は見た!信長 遺体の謎

明智光秀の襲撃から数時間後、本能寺は完全に焼け落ちました。信長を討ち取り、クーデターを成功させた光秀でしたが、信長の遺体を探していました。信長の死を確認し世に広めることは天下取りへむけ絶対に必要だったからです。しかし信長の遺体は本能寺の焼け跡から見つけられなかったのです。羽柴秀吉は本能寺の変を知ると、すぐさま大勢の武将に手紙を送りました。秀吉はクーデターは失敗したと噂を広め、光秀に味方しないよう釘を刺したのです。

 

本能寺の変から11日後の6月13日、秀吉と光秀は京都への入り口・山崎で激突。手紙の効果は絶大で多くの武将が寝返り秀吉は圧倒的な勝利をおさめました。信長の遺体が行方不明という状況をいち早く利用した秀吉の作戦勝ちでした。しかし、秀吉には信長の後継者の座をめぐって信長の息子たちや柴田勝家、徳川家康などライバルがまだ大勢いました。秀吉が信長の跡を継ぐことを天下に示すには彼らに先んじて主君・信長の遺体を見つけ出し自ら葬儀を取り仕切ることが重要でした。しかし「ある寺がすでに信長の葬儀を行った」という知らせが入ってきました。それが阿弥陀寺でした。

 

本能寺の変の知らせを聞いた清玉上人は信長を助けようと本能寺へ。表門は明智勢でうめつくされ激しい戦いが続いていました。清玉は本能寺に潜入しましたが、信長はすでに自害した後でした。清玉は明智軍に遺体が渡ることを防ぐため信長の遺体を焼いたのち阿弥陀寺で弔ったのです。阿弥陀寺は以前から織田家によって保護され繋がりがありました。しかし清玉がこれほどの危険を冒して信長の遺体を守ろうとしたのには40年前の深い因縁がありました。それは清玉がまだ母親のお腹にいた頃、織田家支配の尾張で体調を崩し倒れていた母を助けてくれたのが信長の兄だったのです。しかし母親は亡くなり清玉は天涯孤独の身に。そんな清玉は織田家の人々に育てられ、やがて織田家の庇護のもと阿弥陀寺の住職になりました。清玉が信長の遺体を守ろうとしたのは、そんな織田家と信長に篤い思いを感じていたためでした。

 

本能寺の変からしばらくして羽柴秀吉が阿弥陀寺を訪れました。信長の葬儀を阿弥陀寺で改めて行いたいという申し出のためでした。ところが秀吉の申し出を清玉はキッパリと断ったのです。諦めきれない秀吉はその後2度にわたって阿弥陀寺にお金の援助や領地を与えることを申し出て、清玉を説得しました。それでも清玉は葬儀を決して認めなかったと言います。

 

本能寺の変から4か月後の10月11日、秀吉は信長の葬儀を大徳寺で主催しました。葬儀は7日間にわたり数千人の僧を集める空前の規模でした。秀吉は木像を信長の遺体に見立てて埋葬しました。例え遺体がなくても葬儀を主催することこそが重要だったのです。




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