国吉康雄 アメリカで蘇る日本人画家|日曜美術館

NHK・Eテレの「日曜美術館」で国吉康雄 アメリカで蘇る日本人画家が放送されました。国吉康雄(くによしやすお)は20世紀初頭、移民として海を渡りニューヨークで活躍しました。太平洋戦争に人種差別、その絵には計り知れない苦難が刻まれています。

 

国吉康雄は1889年(明治22年)岡山県岡山市に生まれました。父親は車引きの頭領をしていたと言います。一攫千金の夢を叶えたいと、もうする17歳という時に一人アメリカに渡りました。辿り着いた西海岸で待ち受けていたのは厳しい現実でした。肉体労働の現場を転々とし、英語が話せない国吉康雄は意思疎通をはかろうと言葉の代わりに絵を描きました。それが褒められて画家の道に進むことを決意したのです。やがて国吉康雄はアメリカ美術の本場ニューヨークに移り住みました。しかし、1920年代「日本人移民が仕事を奪う」とアメリカの労働者が反発し、激しい排斥運動が起こりました。そんな時代に描いたのが「果物を盗む少年」です。国吉康雄さんの心情を代弁するかのような緊張感です。国吉康雄は奨学金をもらい人種も年齢も関係なく学べるアート・スチューデンツ・リーグで絵を本格的に学びました。差別のない自由な雰囲気は国吉康雄の才能を一気開花させました。そして生まれた傑作が「もの思う女」です。女性はあえて人種を曖昧にして描かれています。国吉康雄の女性の描き方は独特です。モデルのデッサンをしてから半年ほど絵を寝かせたあと、ようやく色を塗り始めたと言います。1930年代半ばのアメリカは世界恐慌の後で失業者があふれていました。国吉康雄の絵はアメリカ社会で不安を抱えて生きる人々の心をとらえて離しませんでした。

 

国吉康雄は2度結婚しました。妻は2人とも美しいアメリカ女性。夫婦でたびたびパーティーを開きニューヨークに積極的に溶け込んでいきました。そんなおり、故郷の岡山から父親の病気の知らせが届きました。1931年、国吉康雄は父の見舞いと同時に日本で初めての展覧会を開くため会心の作品を携えて帰国しました。展覧会にはアメリカで評価された自信作を持ち込みましたが、評判は芳しくありませんでした。もはや国吉康雄にはアメリカしかありませんでした。しかし1941年12月8日の真珠湾攻撃のあと国吉康雄は日本人というだけで迫害を受けました。彼はアメリカへの忠誠心を証明するために日本軍を批判する絵を描かなければなりませんでした。国吉康雄の人生の中で最も暗くつらい時代を迎えたのです。それでも国吉康雄はアトリエにこもり自分の信じる絵を密かに描き続けました。戦後、国吉康雄は再び脚光を浴びました。今度は美術の指導者としてでした。戦前から母校アート・スチューデンツ・リーグで教えていた国吉康雄は戦後になると一段と熱のこもった授業を行い、教室はいつも生徒たちで一杯でした。

 

1948年、国吉康雄は日本人としては初めてホイットニー美術館で回顧展を開く栄誉に恵まれました。後押ししたのはアメリカ美術家組合の画家たち。展覧会は大成功をおさめ、祝賀会には国吉康雄を敬愛する画家たちがこぞって集まりました。当時、国吉康雄は画家の生活や権利を守る組合のリーダーとして1800人の会員をようする大組織を率いていました。しかし、この組合活動が共産主義だと弾劾され言われなき罪がかけられました。東西冷戦が激しさを増すなかで共産主義者に対する無謀な検挙が行われていました。いわゆる赤狩りです。

 

そして1953年、国吉康雄はひっそりと亡くなりました。生前、国吉康雄は画家を目指す若者たちに「私にとって絵を描くことと生きることは同じなのです。創作は自分が自分であること他の誰でもないということ。その事に正直でさえあれば何も難しいことではないのです」という言葉を残しています。




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