長州のリーダーは逃げの小五郎
嘉永6年、黒船が来航し幕府は欧米の武力に屈して開国し、全国から批判の声があがりました。江戸と並ぶ政治の中心となっていた当時の京都には幕府に反発する若い志士たちが集まりました。中には幕府の要人を暗殺するなど過激な行動をとるものも。
木戸孝允(桂小五郎)
そんな志士たちのリーダーだったのが長州藩士の桂小五郎(かつらこごろう)です。過激な若者たちをまとめる立場だった桂小五郎は、次第に幕府から追われる身となっていきました。そんな桂小五郎には得意技がありました。それは逃げること。
ある時、幕府の役人に追われていた桂小五郎は、顔や体を汚し船頭に変装。役人に気づかれず難を逃れたのです。ある時はとうとう役人に捕まってしまいますが連行される途中、用を足したいと言いはかまを脱ぎ身軽になり逃げおうせました。
いざという時にはあの手この手を使って逃げることから「逃げの小五郎」とあだ名されたのです。
しかし、この逃げの姿勢が桂小五郎を窮地に追い込むことに。それは池田屋事件でのことでした。
池田屋事件で信頼を失う
元治元年6月、旅館の池田屋に集まっていた長州藩士らを幕府側の新撰組が襲撃し激しい斬り合いとなりました。しかし、桂小五郎は戦いのさなか仲間をおいて窓から逃げたのです。
池田屋事件では長州藩士ら30人もの命が奪われた中、桂小五郎は難を逃れ生き残りました。これにより、桂小五郎は仲間からの信頼を失いました。
行方をくらませる
1ヵ月後、池田屋で仲間を殺されたことに怒った長州藩士3000人が武装し京都に攻め上りました。長州軍は幕府に味方する薩摩藩や会津藩などの軍勢と激突。桂小五郎は藩の上役から長州藩士の暴発を止めるよう求められました。
ところが「私は臆病者と思われているから仲間は私の言うことなど聞いてくれるわけがない」と説得役を断り一人で逃亡。京都を離れ行方をくらませてしまいました。
桂小五郎は、全てから逃れ兵庫県出石町に身を寄せました。ここで桂小五郎は商人に姿を変え荒物屋に。
そんな時、恋人だった芸子の幾松(いくまつ)が訪ねてきました。幾松は桂小五郎が京都にいた頃からその逃亡を助けていました。夜毎、潜伏先に握り飯を届け、新撰組の厳しい尋問にも決して白状しませんでした。
幾松は長州藩から1通の手紙をあずかっていました。それは行方をくらました桂小五郎に藩に戻ってこいというもの。しかし、桂小五郎は乗り気ではありませんでした。それでも幾松は長州に戻るよう説得し続けました。
そして慶応元年4月、桂小五郎はようやく長州に戻ることを承知しました。恋人に引っ張られる形で再び歴史の表舞台へのぼることとなったのです。
薩長同盟秘話
慶応元年、桂小五郎は長州藩へ復帰し、名前を木戸貫治(きどかんじ)と改めました。
戻ってみると藩のトップとして迎えられました。実は長州藩は禁門の変などで多くの藩士が亡くなり、人材不足に陥っていたのです。そこで、かつて京都で志士たちのリーダーだった木戸に藩の立て直しが託されたのです。
しかし、幕府は長州藩に総攻撃を仕掛けようとしていました。幕府側の軍勢は10万以上。長州藩の敗北は明らかでした。
頭を抱える木戸の前に土佐の脱藩浪士・坂本龍馬が現れました。坂本龍馬は木戸に大胆な策を提案。それは薩摩と手を結ぶというもの。全国でも有数の勢力を誇っていた薩摩藩を長州藩の味方につけることで幕府に対抗しようというのです。
しかし、この提案に長州藩士たちは猛反対。薩摩はかつて禁門の変で戦った相手だったからです。この戦いで長州の犠牲者は200人以上にのぼっており、薩摩は決して許すことのできない敵だったのです。
そこで木戸は長州藩士たちをしずめるため、長州ではなく薩摩から頭を下げて同盟を頼んでくるという形で調整を進めていきました。
慶応元年閏5月、下関で薩摩藩との会談が開かれることになりました。木戸と坂本龍馬は薩摩側のリーダー西郷隆盛を待ちました。ところが、待てど暮らせど西郷隆盛は現れません。西郷隆盛は直前になって会談をとりやめたのです。
長州藩士たちは、さらに同盟反対を叫び木戸につめよりました。木戸は仲間たちの怒りをなだめつつ再度薩摩藩に交渉の約束をとりつけました。
そして慶応2年1月8日、木戸は薩摩と同盟を結ぶため京都の薩摩藩邸に入り、やっと西郷隆盛と顔を合わせました。
西郷隆盛
長州藩のみんなが納得する形で同盟を成立させるためには、薩摩側から同盟して欲しいと頭を下げてもらわなくてはなりませんでした。そのため、木戸は西郷隆盛が話しを切り出すのを待ちました。ところが、いつまで経っても西郷隆盛の口からは同盟の話が出てきません。両者は見合ったまま10日ばかり、時間だけが空しく過ぎていきました。
しびれを切らした木戸は、会談を打ち切り帰り支度を始めてしまいました。交渉の場に遅れて到着した坂本龍馬は、会談が全く進展していないと知って木戸を強く責めたと言います。坂本龍馬は日本のことを考えるならば、これまでのいきさつは捨て本音で西郷隆盛に立ち向かうべきだと迫りました。坂本龍馬の言葉に木戸は逃げずに西郷隆盛と相対する決意を固めました。そして会談が再開されました。
木戸は「長州の方から同盟を乞うわけにはいかない」という本音を洗いざらいぶちまけました。木戸の真正面からの言葉を聞いた西郷隆盛は「ごもっともでございます」と口を開き、木戸の言葉を全て受け止めました。ここに薩長同盟が成立。巨大な反幕府勢力が誕生しました。
やがて追い詰められた幕府は政権を朝廷に返上。逃げずに西郷隆盛に向き合った木戸の覚悟が、260年余りに及ぶ徳川の時代を終わらせ明治の世を切り開いたのです。
日本のリーダー木戸孝允VS.ちょんまげ!?
時は明治、近代国家建設のため奔走する木戸孝允の前に難題が立ちはだかりました。それはちょんまげ。町並みが西洋風に変わっても、人々の頭の上には昔ながらのちょんまげがのっていました。
幕末に日本に訪れたロシア人は「ちょんまげは珍妙でぶざまな髪型で馬鹿らしく目障り」と評しています。そんな西洋人の見方に木戸孝允は危機感を抱いていました。
清は約30年前にイギリスとのアヘン戦争に敗れ半植民地化され存亡の危機に陥っていました。清の人々の独特の髪型・辮髪もイギリス人に奇妙な風習と見なされ、清国を未開の国として一層蔑視することに繋がったからです。
明治4年、木戸孝允は新聞に「ジャンギリ頭ヲタタイテミレハ文明開化ノ音ガスル」という唄を載せました。つまり、まげを切った髪型にしてこそ日本は文明国になれると訴えたのです。そして木戸孝允自身も新政府内でいち早くまげを切り落とし模範を示しました。さらに8月には断髪令を制定し、法律でもまげを切ることを推奨しました。
しかし、まげは1000年も続いた伝統の髪型であるため、日本中で大騒動を引き起こしました。断髪した頭は女性から大不評で、日本各地で断髪離婚が起こったのです。日本中で続発する断髪への抵抗に木戸孝允は頭を抱えました。
そこで木戸孝允は、明治天皇に国民の模範になってもらおうと考えました。特に断髪に強行に反発していたのが岩倉具視でした。
そんな中、西洋文明を学ぶため外国に使節を派遣することになり岩倉具視と木戸孝允はともに使節団の一員となりました。明治4年12月、岩倉具視と木戸孝允はアメリカ・サンフランシスコに到着。行く先々で歓迎を受けました。特に和装にまげの岩倉具視はアメリカ人たちの注目の的でした。その歓迎ぶりに岩倉具視は気を良くし自らの格好に自信を深めました。
しかし、アメリカ人の本心は厳しいものでした。岩倉具視はアメリカに留学していた息子に「アメリカ人は文明が開けていない国の奇妙な風俗として喜んでいるだけなのです」と告げられたのです。表では自分の姿を歓迎していたかに見えたアメリカ人が、裏では野蛮な格好と見下していたことを知りました。ついに、岩倉具視は自らのまげを切り落としました。
岩倉具視断髪の知らせが日本に伝わると宮中の空気は一変し、天皇に近い公家たちが次々と断髪。宮中にもようやく近代化の風が吹き始めました。そして明治6年3月20日、明治天皇は自らの断髪を宣言。側近の手でまげが切り落とされました。明治天皇に文明開化の模範になってもらおうという木戸孝允の思いがついに届いたのです。
新聞で天皇断髪が伝えられると、ちょんまげを切る動きは全国に広まりました。こうして日本人の見た目もまた文明開化へと大きく舵を切ることになりました。
ちょんまげの壁を乗り越えた木戸孝允は、堰を切ったように様々な改革に着手。近代国家日本への道を切り開いていったのです。
明治のリーダーとして日本の近代化にまい進した木戸孝允ですが、激務の中にあっても決して忘れないことがありました。
京都にある霊山護国神社は、坂本龍馬や高杉晋作など幕末に活躍した人々400人余りのお墓がたてられています。ここを築いたのは明治政府の要職について間もない木戸孝允でした。幕末動乱のさなか志半ばで命を落とした仲間たちを木戸孝允は生涯忘れることはなかったのです。
木戸孝允は亡くなった仲間の子供たちに対しても私費を投じて援助を行いました。中にはヨーロッパに留学させた子供もいました。
さらに、木戸孝允の援助は長州藩と敵対した会津藩にも及びました。明治以後、会津の人たちがおかれた厳しい立場を思いやり、土地や資金の面倒をみるよう新政府の伊藤博文に働きかけるなど救済に尽力。
明治10年5月、数々の改革に取り組んでいた木戸孝允は体調を崩し自宅で亡くなりました。
「歴史秘話ヒストリア」
逃げの小五郎とよばれて
~長州のヒーロー木戸孝允の青春~
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