平安時代のはじめ、四国・室戸岬でひとりの修行僧が開眼しました。その僧は中国大陸に渡り、日本に密教の奥義を伝えました。
天空の聖地 高野山へようこそ
密教が中国から日本にもたらされたのは平安時代のはじめのこと。唐に渡った空海が「生けるものすべてがその身のまま仏となる」という新しい考え方を学び広めようとしました。
その修行道場として空海が築いたのが高野山です。曼荼羅を通して仏の教えを感じ取り正しい修行を行えば、人は誰でも生きている間に悟りをひらけるという即身成仏の考え方を伝えました。
空海の弟子たちが築いた寺の中には、参拝者が宿泊できる宿坊が52ヶ所もあります。宿坊では様々な修行の体験ができます。
空海の時代、修行僧の食事は一汁一菜の質素なものでした。肉類や魚のほかニラ、ねぎ、にんにく、らっきょう、しょうがなどニオイや辛味の強い野菜も食べることを禁じられていました。
その後、貴族や皇族たちが高野詣をするようになり料理の工夫がされるようになったと言います。
空海ゆかりの国宝 その秘密とは?
空海は書の達人でした。その才能は幼い頃から花開き、中国の書の名人・王義之の筆跡を完全にマスターしていたと言われています。
国宝・風信帖は、空海が最澄にあてた手紙です。当時の日本人は、自分の気持ちを中国語に翻訳して手紙を書いていました。中国語は外国語、日本人の心の世界をうまく書き表すことはできませんでした。空海の時代、自分たちの気持ちを自由に表せる文字を持ちたいという欲求が高まっていました。
そんな思いを徹底的におしすすめたのが益田池碑銘です。漢字から「ひらがな」が生まれたのは、空海の死から数十年後のことと考えられています。
空海の言葉に秘められた師弟の物語
数多い弟子の中でも、空海が最も愛情を注いだのが智泉です。
平安時代のはじめ、20代の空海は仏教を志しひとり山林修行に明け暮れていました。この頃、空海のように修行する者は「私度僧」と呼ばれ、正式な僧侶として認められていませんでした。それでも空海は己の道を求め、明日をも知れぬ日々を送っていたのです。
そんな時、空海の弟子になったのが智泉です。智泉は空海の姉の子供で14歳だったと言われています。
延暦23年、空海は仏教を学ぶ留学生として遣唐使船に乗り込み唐の国に渡りました。空海は唐の都で当時の最新仏教・密教を学び、一年も経たないうちに密教の奥義を窮めました。
空海は日本に密教を広めることを誓い帰国。ところが、京の都に入ることを許されませんでした。国から20年間の留学命令を受けていたからです。
この窮地に空海のもとに駆けつけたのが智泉でした。二人は再会を喜びあい、密教を広めるために手をたずさえて歩み始めました。
大同4年、中国の書や密教に強い関心を持っていた嵯峨天皇が即位し、空海は許され都に入りました。弘仁7年、空海は高野山に修行道場を作ることにし、寺院の建設を弟子たちに任せました。
天長2年、高野山で智泉が倒れてしまいました。長年の無理がたたったのか、智泉は37歳で亡くなりました。空海は深い悲しみを抱きながら、その後も弟子たちと高野山の建設を続けました。
「歴史秘話ヒストリア」
高野山1200年へのいざない
~平安のスーパースター・空海の物語~
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