漫画の神様・手塚治虫(てづかおさむ)は戦後、半世紀近くに渡ってスケールの大きな物語を描き続けました。日本に独自の漫画文化を切り開き、日本で初めて長編テレビアニメを手かげたのも手塚治虫でした。
ライフワーク「火の鳥」は宇宙の中で永遠に生きる火の鳥の姿を通して、なぜ限りある命を生きるのか問い続けました。
命の意味を見つめ続けた手塚治虫は、700タイトルを超えるマンガでどんなメッセージを伝えようとしたのでしょうか?
生い立ち
昭和3年、大阪で生まれた手塚治虫は4歳の時に宝塚市に越してきました。落語や漫画など幅広い趣味を持つ父と、音楽が好きでピアノを弾いていた母という自由な気風の家庭で育ちました。
虫を追い野山を駆け巡った治虫少年は、採集した昆虫を一つ一つ絵に描き図鑑を作っていました。この頃好きだった甲虫のオサムシからペンネームを付けました。
宝塚は当時、大阪と阪急電車で結ばれ遊園地や温泉施設が作られていました。大劇場では毎日、歌劇が上演され手塚治虫は母に連れられて何度も通いました。
豊かな自然とモダンな文化、2つの世界を行き来しながら育ったのです。しかし、平和な暮らしも長くは続きませんでした。
太平洋戦争勃発
昭和16年12月、太平洋戦争が始まり国民は戦争へ総動員されて行きました。昭和18年に学徒勤労動員が始まり、中学生も軍事工場などにかり出されました。
中学3年生の時、手塚治虫も大阪の工場へ動員されました。手塚治虫はしばしば軍事教練を抜け出し漫画を描いていたと言います。
昭和20年、大阪は激しい空襲に襲われ、手塚治虫が働いていた工場の一帯もB29に襲われました。手塚治虫は燃える街の中を逃げ惑いました。
空襲の翌月、手塚治虫は軍医を養成するために作られた大阪大学医学専門部に入学。終戦を迎えました。
漫画家デビュー
昭和21年、手塚治虫は漫画家の大坂ときをさんを訪ねました。大坂さんは昭和21年5月に月刊漫画雑誌「まんがマン」を創刊。手塚治虫は戦時中に描きためていた作品を自分で製本し持参していました。
大坂さんの紹介で手塚治虫は昭和22年に長編漫画「新宝島」を出しました。「新宝島」は全国で約40万部が売れたと言われています。この大ヒットは大阪を中心に赤本ブームを巻き起こしました。
赤本とは主に駄菓子や夜店で売られていた漫画本。子供のおもちゃと見られていたため、GHQによる検閲もなく自由な表現で人気を集めていました。
手塚治虫は赤本を描く漫画家と医学生の二足のわらじを履くことに。
大学では外科を専攻し、臨床の現場で患者と向き合うこともありました。また最新の顕微鏡を使って、生殖細胞を観察し命が宿る過程を見つめました。
売れっ子の手塚治虫は講義中にマンガを描くこともありました。教授にこう言われたそうです。
漫画家として生きることを決めた手塚治虫は、30冊を超える赤本を描きました。
連載の依頼が殺到!東京へ
昭和25年、東京の雑誌から声がかかり手塚治虫は連載を始めました。「ジャングル大帝」は手塚治虫が初めて取り組んだ長編漫画の連載です。「ジャングル大帝」が評判を呼び東京の雑誌から連載の依頼が殺到。昭和27年、手塚治虫は東京に居を移しました。
翌年、手塚治虫は豊島区椎名町のトキワ荘で暮らし始めました。すでに9本の連載を抱えていた手塚治虫は「ジャングル大帝」をはじめ「鉄腕アトム」「リボンの騎士」「火の鳥」などをトキワ荘の4畳半の部屋で描きました。
やがて、手塚治虫に憧れ漫画家を目指す若者たちが全国からアパートへやってくるようになりました。
初のアニメーション
漫画で成功をおさめた手塚治虫には、アニメーションというもう一つの夢がありました。
昭和34年、東映動画の演出家である白川大作は手塚治虫が描いた「ぼくの孫悟空」を原作にアニメーション映画を作りたいと手塚治虫のもとを訪ねました。そして昭和35年に「西遊記」が公開されました。
映画のエンディングについて手塚治虫が「ガールフレンドのリンリンを殺した方が良い」と言い出しました。しかし、白川大作と東映の大勢の意見は「それはない」というものでした。手塚治虫の提案は採用されず映画はハッピーエンドで終わりました。
映画「西遊記」が公開された昭和35年当時、日本は高度経済成長の只中にありました。テレビの受信契約は500万件にせまり多くの家庭で茶の間にテレビが登場。手塚治虫は自分の思いを貫くアニメーション作りを諦めませんでした。
虫プロダクション設立
昭和36年に虫プロダクションを設立。手塚治虫の漫画「鉄腕アトム」を原作にして、日本で初めての長編テレビアニメシリーズを作ることになったのです。
アニメーション映画なら数百人が何ヶ月もかけて作りますが、虫プロのスタッフは最初38人でした。採用されたのはリミテッドアニメーション。フルアニメーションは1秒の動きを24枚の絵で表現しますがリミテッドアニメーションは8枚。動きの滑らかさは犠牲になりますが絵は3分の1ですみます。
「鉄腕アトム」
昭和38年1月、「鉄腕アトム」の放送が開始されました。リミテッドアニメーションとはいえ大変な作業でした。スタッフは徹夜が続きましたが、手塚治虫は妥協しませんでした。
彼はさらに簡略化したアニメ作りの方法を模索。手間を省くため一度作ったアトムの動きをストックしておき、背景をかえて再利用するバンクシステムを考案。絵を少しずつズラしながら撮影し動きを表現しました。
「鉄腕アトム」は最高視聴率40.7%を記録。後を追ってアニメ番組が量産されていきました。
「鉄腕アトム」の放送開始から4年目、手塚治虫はアトムを殺すことを決断。最終回、地球を救うためアトムは太陽に突入しました。
虫プロ倒産
「鉄腕アトム」のヒットをうけて虫プロのスタッフは500人にまで増えました。しかし、アニメ製作会社が増え競争が激化。虫プロの制作本数は減りました。
手塚治虫は漫画の連載を抱え、虫プロのたて直しに専念することが出来ませんでした。虫プロは設立から12年後の昭和48年に倒産してしまいました。
漫画の世界でも「ゴルゴ13」や「あしたのジョー」など劇画が台頭。新しい才能が手塚治虫を追い詰めました。
「ブラックジャック」
そんな手塚治虫に手を差し伸べたのが「少年チャンピオン」です。そして昭和48年に始まったのが「ブラックジャック」です。主人公は天才的な外科医ブラック・ジャック。彼は神業ともいえるテクニックで患者の命を救います。
しかし、医師の免許は持たず法外な治療費を請求。冷徹な顔を持つ反面、命を救うことが本当に患者のためになるのかしばしば悩むのもブラックジャックです。
「ブラックジャック」は読者の支持を受け、数回の予定が10年続く連載になりました。手塚治虫は再び漫画界の第一線に復活したのです。
手塚治虫が描く人物は多くがブラックジャックのように正義と悪、正と邪の両面を併せ持っています。
ライフワーク「火の鳥」
手塚治虫が34年に渡って描き続けたライフワーク「火の鳥」は、永遠に生き続ける火の鳥が過去から未来まで人間が争い悩み残酷な運命に翻弄される姿を見つめ続けます。
永遠の命をテーマにした「火の鳥」を描くきっかけは、敗戦直後の医学生時代の体験にあったと言います。
昭和63年、手塚治虫は胃がんを患い入退院を繰り返しました。そして平成元年2月9日、手塚治虫はこの世を去りました。
「戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 知の巨人たち」
第8回 宇宙から生命を見つめて~手塚治虫~
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