「説教のあとの幻影」は旧約聖書の一節、天使とヤコブの戦いがモチーフになっています。右上で戦っているのが天使とヤコブ。実は、神父の説教を聞いた人々の幻影なのです。幻影を目にしているのは、ケルトの民族衣装を着た女性たちです。
ポール・ゴーギャンは、後期印象派を代表する画家の一人です。ポン=タヴェンで描いた「説教のあとの幻影」で印象派から脱却し、画家としての第二のスタートを切りました。
ポン=タヴェンでゴーギャンに一体何があったのでしょうか?
印象派に傾倒
ゴーギャンは、若い頃から画家を目指していたわけではありませんでした。株式仲買人として妻と5人の子供たちと共に裕福な生活を送りながら趣味で絵を描く程度でした。
ところが、28歳の時にサロンに出品し入選。そしてカミーユ・ピサロと出会い印象派に傾倒していったのです。
印象派展には第4回から毎回作品を出展していました。印象派らしく明るい日差しと暖かな風景です。ゴーギャンの作品は高い評価を得て、印象派を代表する画家の一人となったのです。
ところが、40歳の時に描いた「説教のあとの幻影」には印象派の特徴は見受けられません。明るい光はなく平面的で強烈な色彩。ゴーギャンは印象派を捨てたのでしょうか?
ゴーギャンが本格的に画家になることを決意したのは35歳の時でした。生活に困窮し家族は妻の実家に身を寄せ、ゴーギャンは絵を描きながら各地を転々としていました。
そして1886年、39歳の冬に辿り着いたのがポン=タヴェンでした。ゴーギャンはこの地に拠点を置きながら、アルルでゴッホと一緒に制作をするなど意欲的に活動しました。
新たな芸術に挑戦
ゴーギャンとエミール・ベルナールは、パルドン祭の絵を描きました。ベルナールはこの時描いた「草地のブルターニュ女たち」をゴーギャンへ贈りました。パルドン祭に集まった民族衣装の女性たちが野原で寛いでいるような場面を描いています。
同じパルドン祭を題材にゴーギャンが描いたのが「説教のあとの幻影」です。
2枚は遠近感がなく平面的で単純化された構図です。人物たちも太い輪郭線で縁取られています。
当時フランスでは、ルネサンス時代から続いた空間の見せ方、遠近法など描き方の規則が決まっていて印象派時代のゴーギャンもその方法を基本にしていました。しかし、ポン=タヴェンに来てゴーギャンは従来の絵画の法則を捨て新たな芸術に挑戦したのです。
まず女性たちを明確な輪郭線で描くことで単純化。ただその中で一人だけ手前の女性を表情まで詳細に描き祈りを象徴的に表しています。また中央の木で女性たちがいる現実の世界と天使とヤコブがいる幻の世界を分け、一つの画面に2つの世界を描くことを試みています。
ゴーギャンは写実や遠近法を捨て、明確な輪郭線や平面構成を用いてパルドン祭の雰囲気や敬虔な信仰心を表そうとしたのです。
自然を模倣せず己の内に感じるまま、ある種の抽象性を以って描く。
(ポール・ゴーギャン)
この試みに重要なのが色だと考えていました。ゴーギャンはパルドン祭の独特の音楽、踊り、衣装、祈りから赤を感じたため、赤をテーマに描きました。
しかし、ベルナールは黄緑色を感じました。ゴーギャンは同じパルドン祭を描いてもお互いの感じる色が違うことに気づきました。そして感じた色で描くことこそ、画家の個性を打ち出すことが出来ると確信したのです。見たままを描く印象派とは違う、心の色で描く新しい芸術の誕生でした。
ゴーギャンは「説教のあとの幻影」を町の教会に寄付しようと考えていました。しかし、理解されず受け取りを拒否されてしまいました。ゴーギャンの絵は新しすぎたのです。真っ赤な背景も天使とヤコブのポーズもあまりにも大胆でした。天使とヤコブのポーズは葛飾北斎の「北斎漫画」を参考にしたものでした。
ポン=タヴェンで生まれた革新の一枚をきっかけに、ゴーギャンは新たな自然の色を求めてタヒチへ向かい、より原始的な美の世界を追求していきました。
「美の巨人たち」
ポール・ゴーギャンの「説教のあとの幻影」
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