数々の名作を生んだクロード・モネが、自ら最高傑作と称した作品が「ジヴェルニーの庭と家」です。モネが庭師と作り上げ、数十年かけて完成させながら死後荒れ果ててしまった庭です。
画家が造った花と水の楽園
モネがパリからジヴェルニーに移り住んだのは1883年、42歳の時でした。偶然訪れたこの村でピンク色の家を見つけて一目惚れしたそうです。
当時のモネは絵が思うように売れず、あまり裕福ではないのに10人家族の大所帯でした。自給自足で食費を浮かそうとモネは庭で野菜作りを始めました。元々庭は食料を得るための畑だったのです。
やがて、絵が売れ始めると野菜作りをやめ色彩豊かな花の庭を作り始めました。時はフランス初の園芸雑誌が発売され、貴族の楽しみだった庭作りが市民に普及し始めた時代。モネの庭も注目を浴びていました。
モネの絵との驚きの関係
モネはパレットで絵の具を混ぜることなく、一色ずつキャンバスに置くようにのせて風景を描いた画家でした。花の庭にもこの手法が取り入れられています。
自らの絵の表現のために外国の品種まで取り寄せ、花を絵の具に見立てたモネはそこまで徹底して色彩にこだわっていたのです。
そんなジヴェルニーで忘れてはならないのが、モネが暮らした家です。花だけでなく家の色彩にもこだわりぬいたモネ。実は、外観の色にも仕掛けが。
色彩がつなぐ美しき世界
実は家はモネが住む前と大きく違うところがあります。ピンク色の壁が気に入っていたモネは、家のすぐ前に濃いピンクのチューリップを植え、庭から家へと連続する色彩を作り上げました。そして、元々グレーだった窓枠を葉が茂るような緑に塗り替え連続性を強調したのです。
さらに、家から続く小道にも変更を加えました。バラのアーチです。チューリップとは開花時期が異なるバラのアーチを作り、道の両脇にも花を植えることで季節がうつろいでも庭と家の連続性が保たれるようにしたのです。
「睡蓮」を生んだ場所
花の庭に続いてモネが手掛けた水の庭は、バラのアーチがかかった小道の先にあります。花の庭とは地下通路で繋がっています。
人工の池を作る計画は村人との間にちょっとした騒ぎを巻き起こしました。池はセーヌ川から水をひいていますが、農民たちが反対運動を起こしました。外国の植物が水路を通って何か良くないものを畑に送り込むのではないかと。
そこでモネは役所に「この庭に有害なものはない」と手紙を出しました。
「睡蓮」のための仕掛け
モネは日本風の太鼓橋をかけるため、水の庭を作ったと言われています。当初、モネが水の庭で求めていたのは太鼓橋でした。
やがてモネは睡蓮に目を奪われました。池を作る時にたまたま浮かべたものでした。そして水の庭は睡蓮のための庭へと作り替えられていきました。
初期の「睡蓮」は池の水が単調な色合いで暗く沈み込み、水面に浮かぶ睡蓮の美がうまく表現されていません。そこでモネは水辺にしだれ柳を植えました。水面への柳の映り込みを描けば水の存在が際立ち、睡蓮の美が表現できると考えたのです。
悩んだモネは毎日のように池のほとりに立ちました。
理想の睡蓮を描くために
白く立ち込め、池の水面を覆う朝霧がモネの睡蓮を変えました。
ついにモネは理想の睡蓮を描くことに辿り着いたのです。
実は、霧の効果に気づいたモネは朝霧が立ち込めやすくなるよう水の庭に手を加えました。水蒸気が発生しやすいとされるポプラの木を植え、霧を閉じ込めるように睡蓮の池を様々な樹木で囲い水の庭を作り替えていったのです。
霧に満ちた水の庭は、モネを最晩年の大作へと突き動かしました。「睡蓮」の連作です。
画家が造り上げた最高傑作
42歳で移り住んだモネが、自らの理想を実現するために死の間際まで手を入れ続けた庭と家。モネの最高傑作は徹底した美意識に貫かれていました。
花の庭で色を極めた画家は、水の庭で終生のモチーフを完成させました。
「美の巨人たち」
モネ「ジヴェルニーの庭と家」
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