ディスレクシア 読み書きが苦手な少年が隠し続けた壮絶人生|ザ!世界仰天ニュース

井上智さんは、1962年に大阪で生まれました。活発でみんなを引っ張るガキ大将でした。聞いたことは理解が速く口も達者でしたが、文字をスラスラ読むことが出来ず書くことも困難でした。

 

井上智さんは、自分も家族も気づいていない障害に苦しんでいたのです。ディスレクシアです。

 

ディスレクシアとは充分な教育の機会があり知的に問題がなく視覚・聴覚器官の異常がないのにも関わらず「読み」「書き」のどちらか、あるいは両方の正確さと流暢さに困難のある症状

 

原因は視覚的なものと音韻的なものがあると考えられています。視覚的な問題がある場合、文字がだぶって二重に見えたり、ねじれたり歪んで見えたり、ひっくり返って見える鏡文字や常に動いて見える症状の人もいます。

 

井上智さんの場合は音韻的な問題が強く、文字を見てもそれがどんな音なのかスムーズに浮かんできませんでした。目で見た文字を書き写すことができましたが、耳で聞いた言葉を文字にするのは混乱しました。さらに、ひらがなは形の似た文字の区別がつきませんでした。

 

ディスレクシアは、全く読めないわけでも全く書けないわけでもないため、返って誤解を受けやすく井上智さんは「やればできる」と思われ続けました。

 

井上智さんは数字、時計、音符、地図は問題なく読むことができました。なぜ読み書きだけ出来ないのか母も困惑していました。

 

誤魔化すように…

やがて、井上智さんは書けないことを誤魔化すようになりました。親の前では出来ないのではなくふざけているフリをしました。教師も障害とは知らず、国語の授業では恥ずかしくて泣き出しそうだったと言います。答えがわかっていても正確に書けなければ点数はもらえないため、テストはどの教科も点が悪かったと言います。

 

やがて、頑張って10点より白紙で0点の方がマシだと思うようになりました。

 

一方、理科の実験などは面白く得意でした。井上智さんは、親の仕事の都合で転校を繰り返しました。そのたびに、新しい友達や教師と出会いました。

 

そして、ある教師と出会いました。先生はテストの時間に井上智さんを教卓に呼び問題文を読み上げ、智さんが答えると先生がそれをテスト用紙に書いてくれました。結果は95点。高得点に喜びましたが読めない、書けない自分がますます理解できなくなったと言います。

 

次のテストの日、他の生徒たちがズルいと言い出しました。智さんは2度と読み上げのテストを受けることはありませんでした。

 

中学生になると、読み書きができなければイジメの対象になると思い、教科書を読まされそうになると教師へ反抗することで誤魔化しました。すると、授業中に当てられる事はなくなり、授業に集中できたと言います。皮肉なことに彼は無視してもらうことで初めて授業が楽しくなったのです。

 

高校中退

智さんは運動神経が良かったため、体育教師にすすめられ陸上部に入部。陸上の成績が評価され、多くの高校から誘いを受けました。

 

進んだ高校は不良の集まり。高校を3ヶ月で中退し家も出ました。

 

働き始める

大衆酒場で住み込みで働くことにしました。しかし、領収書や伝票、注文書など文字を書く場面は沢山ありました。努力では補えず、辞めてしまいました。

 

次に選んだのは建築現場での内装の仕事。必要な知識は見て聞いて覚える事が出来ました。そして智さんは若くして独立。ところが、バブル崩壊と共に建築業界の景気は冷え込み会社は倒産しました。

 

その後、智さんは鳥取へ移り住みました。人の別荘に住まわせてもらいながら周辺の別荘の管理や補修をして暮らしていました。この頃、智さんにとって天の助けともいえるパソコンが登場。書くという作業を代行してくれる上、漢字の変換までしてくれました。

 

地元で教育関係の仕事をする女性と結婚。しかし、彼女にも読み書きのことは言いませんでした。

 

転機

43歳の時、智さんの人生が変わる出来事が起こりました。ディスレクシアについて書かれた本を手に取ったのです。

 

時間をかけて必死に読みました。初めて知った真実に涙が溢れてきたと言います。障害であると分かっていれば、こんなに自分を責めずに生きて来られたかもしれないと。

 

大工の仕事を広げる勇気もわき、融資の相談で訪れた銀行で思い切って障害のことを打ち明けてみました。すると、あっさりと受け入れてくれたのです。分かってくれる人もいると新たな希望に繋がりました。

 

現在、智さんは大工として自分の工房を持ち、別荘のリフォームやウッドデッキなどの設計・施工をしています。

 

「ザ!世界仰天ニュース」

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