実は、相田みつをの名が今のように世に知れ渡ったのは彼の死後。そのため、生前の彼がどのような人物だったのかはほとんど知られていません。
1924年、相田光男は栃木県足利市の刺繍職人の父の元、6人兄弟の3番目に生まれました。幼い頃から書道の才能があった相田みつをは、20歳の時に書家になることを決意。当時の書は今知られているようなものとは全く違うものでした。それは伝統を重んじる正統派な作品。全国コンクールで1位になる腕前でした。
それでも、相田みつをは上手な字は褒められても人々の心には響かないと今のような作風に変更したと言います。しかし、当時の日本は戦後の貧しい時代。無名作家の書を買う者などいるはずもなく生活は苦しいものでした。
妻との出会い
25歳の時、相田みつをは運命の出会いを果たしました。それが、後に妻となる千江(ちえ)さんです。千江さんは地元の材木商の箱入り娘。出会いは「短歌の会」でした。当時はお花・お茶・短歌が一流のお嬢様ならではの習い事でした。
売れない書家とお嬢様、立場も収入も全く違う二人でした。相田みつをは将来が何も見えない中、超強引にプロポーズ。千江さんは相田みつをの情熱と馬鹿正直な性格に惚れこみ、1954年に二人は結婚しました。
結婚後、二人の子宝に恵まれた千江さん。しかし、隣の部屋に大家がいる下宿状態。冷蔵庫もなく机はみかん箱という極貧でした。
書への異常なこだわりが妻を振り回す
そんな貧乏生活の中、相田みつをが見せたのは書への異常なこだわりでした。住んでいる家は8畳なのに、作品制作のためお金も無いのに自宅の隣に30畳のアトリエをかまえ、家賃も払えないのに最高級の筆と硯を使用。当時、大卒の初任給が1万5000円の時代、一反3万円の最高級の和紙を山のように使用していました。
書に関するものは全てつけ払いで生活は貧乏のどん底。今日食べる米にも困るほどでした。
当時、生活の糧にしていたのは個展でわずかに売れる書と、和菓子屋さんの袋や包装紙のデザインを自ら頼み込んで仕事をもらいました。
しかし、この稼ぎだけでは生活はままならず、千江さんは実家に頭を下げてお金を借りていました。
さらに、貧乏生活に拍車をかけたのが相田みつをが命じた妻の労働禁止令です。少しでも収入があると、それに甘えて筆が甘くなると、妻は家計を助けることさえできなかったのです。
さらに、相田みつをはようやく個展で売れた自分の書を焼却。なんと、購入者の自宅に押し掛け「あの書を売るのはやはり恥ずかしい」とせっかくの収入を返金して買い戻してくる始末。書を極めていくための相田みつをのこだわりに家計は火の車でした。
しかも、苦労ばかりかけた妻に感謝やねぎらいの言葉すらかけたことがなかったと言います。そんなわがまま放題の末、1991年に67歳で死去。脳内出血による突然死でした。
まだ、その名が世に知れ渡る前だったため、彼の死は小さく報じられました。残された家族にほとんど何も残すことなく天国へ旅立ちました。
売れたきっかけ
しかしその死から数年後、相田みつをの書は爆発的にヒットしました。きっかけとなったのは美空ひばりの自伝でした。
美空ひばりが相田みつをの書と出会ったきっかけは、兄と慕う銀幕スター萬屋錦之介。相田みつをの書に強く惹きつけられた萬屋錦之介が病に伏せる美空ひばりに相田みつをの言葉を送ったと言います。
つまづいたって
いいじゃないか
人間だもの
晩年、病と闘う美空ひばりの心も支えた相田みつをの言葉は口コミで徐々に広まり、今では400万部の大ベストセラーになりました。
妻が語る真実
91歳の千江さんは、相田みつをに振り回された人生をどう思っていたのでしょうか?
しかし、世間に知られていない夫婦の秘密が二人を繋ぎとめていました。
何と、相田みつをが書いた書を最後に選んでいたのは妻・千江さんでした。個展や本で書を出す時は、千江さんが批評して選んでいたと言います。
そんな千江さんが相田みつをの書の中で一番好きな言葉が…
ただいるだけで
あなたがそこに
ただいるだけで
その場の空気が
あかるくなるあなたがそこに
ただいるだけで
みんなのこころが
やすらぐそんな
あなたにわたしも
なりたい
相田みつをの数々の言葉の裏には、常に自分を愛し信じてくれる人がいる。だからこそ、相田みつをの言葉は苦しい時に勇気を与えてくれるのです。
相田みつをは亡くなる寸前、千江さんに驚きの言葉を残していました。
今まで妻に労いの言葉一つかけなかった相田みつをの感謝の言葉でした。
相田みつをの言葉の裏には夫婦の愛が隠されていました。
「爆報!THEフライデー」
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