チンギス・ハン 幻の墓を探せ!|私を不思議に連れてって!

かつて「万物の支配者」と呼ばれた一人の男がいました。世界最強の騎馬軍団を率いたチンギス・ハンです。

 

チンギス・ハン

 

その支配はユーラシア大陸全域に及び、人類史上空前の大帝国を築き上げました。そんな誰もが知る英雄の最大の不思議が墓はどこか?ということ。

 

これまで世界中の探検家や学者が挑んでも見つかることのなかったチンギス・ハンの墓。その最大の謎を解き明かそうとするのがフランス人考古学者のピエール=アンリ・ジスカールです。

 

もともと社会主義国だったモンゴル。ソ連崩壊までは考古学上未知の領域でした。そこに一早く着目したのがジスカール率いる研究チーム。以来、大草原に眠る遺跡の数々を調査。モンゴルの歴史を紐解く大発見を成し遂げてきました。

 

しかしただ一つ、80歳になるまで叶えられずにいた夢がありました。チンギス・ハンの墓を見つけることです。

 

墓を探す手掛かりの一つが、モンゴル帝国の起源を綴った「元朝秘史」です。この書物には謎の多いチンギス・ハンの人生を紐解く情報がつまっていると言います。

 

「元朝秘史」は皇帝の命令で書かれたものだと思われます。モンゴルの歴史や支配者にまつわる極秘情報を含むため「秘史」という名前がついたのでしょう。

(歴史家ヤロスラフ・レベディンスキー)

 

「元朝秘史」にはチンギス・ハンが幼い頃の様子も詳しく記されています。1160年頃、遊牧民の名家に生まれ、手には将来大物になる証とされた血の塊を握っていました。周りの期待を一身に受け、部族のリーダーになることを夢見ていました。

 

 

「元朝秘史」には「ボルハン・ハルドゥン」という地名が数多く登場します。ボルハン・ハルドゥンは、チンギス・ハンが少年期を過ごしたという山岳地帯をさすのです。重要なのはモンゴルでは死後、故郷に埋葬されるべきだと信じられてきたことです。チンギス・ハンの死後、埋葬地の一帯には「大禁区」と呼ばれる立入禁止区域が設けられました。厳重の見張りが置かれ決して侵入は許されなかったのです。

(シカゴ大学 ジョン・ウッズ教授)

 

聖なる山ボルハン・ハルドゥンがあるのは、広大な保護区の中央部。中世から現在にいたるまで立入が厳しく制限されてきたエリアです。

 

ボルハン・ハルドゥンの近くで育ったと言われるチンギス・ハン。9歳になった頃、突如悲劇が襲いました。遊牧民を束ねていた父が、敵対する勢力の罠にかかり毒殺されたのです。まだ幼いチンギス・ハンが父の代わりをつとめることは不可能でした。

 

一家は部族に見捨てられ放浪の暮らしを余儀なくされました。こうした悲劇には隣接する大国・中国の思惑が陰を落としていました。

 

当時、中国は遊牧民たちが結束して強大な存在になることを恐れていました。そこで、遊牧民同士の争いをあおるため干渉したり、直接介入して勢力の分断をはかるなど、常にモンゴル統一の動き潰そうとしていたのです。

(シカゴ大学 ジョン・ウッズ教授)

 

チンギス・ハンの墓が入念に隠されていたことは、あらゆる文献に記されています。このことはモンゴル帝国の後継者たちについても同様です。歴代皇帝の墓は周到に隠され、正確な場所は一切分かっていないのです。

 

チンギス・ハンにとってボルハン・ハルドゥンは特別な場所でした。ある時、敵に追われ身を潜めたのがこの山だったのです。彼は山に命を救われたと考えていました。その精神的な結びつきこそが墓のありかを示す根拠となっているのです。

(歴史家ヤロスラフ・レベディンスキー)

 

生き延びたチンギス・ハンはこう言い残したと言います。

 

私はボルハン・ハルドゥンに登った。追手におびえて虫のように逃げ回っていた私はこの山に守られたのだ。これから毎日山に供物をささげて祈ろう。わが子や孫も忘れることなく心にとどめおくべし。

(「元朝秘史」より)

 

ここから、征服者チンギス・ハンの快進撃が始まりました。遊牧民の統一を自らの使命として歯向かう勢力を次々と軍門に下しました。無敵を誇った騎馬軍団の強さは伝説として語り継がれました。

 

注目すべきは方角です。モンゴルではが縁起が良い方角だと考えられています。住まいのゲルも南向きです。チンギス・ハンの墓も南を向いているはずです。

(シカゴ大学 ジョン・ウッズ教授)

 

このヒントをもとに山の南斜面を分析してみると、円形に石が並んだストーンサークルが見つかりました。しかし、科学調査の結果ストーンサークルは自然にできたものであることが分かりました。

 

世界史上最大の帝国へ

1206年、敵対する遊牧民を次々と制圧したチンギス・ハンはモンゴル帝国を建国。しかし、遊牧民の統一は底知れない野望の第一歩にすぎませんでした。ユーラシア大陸で勢力を拡大する機会を虎視眈々と狙っていたのです。

 

勢いを増すチンギス・ハンの権威に膝を屈し同盟を求める勢力が相次ぎました。そこで、大きな転換点となったのが先進的な文化を持っていたウイグル族との関係です。チンギス・ハンはウイグル族の文字を取り入れ、支配の切り札としたのです。

(歴史家ヤロスラフ・レベディンスキー)

 

文字が重要な役割を果たしたのがモンゴル帝国の法典「ヤサ」です。それまで口伝で受け継がれてきた遊牧民の行動規範が初めて明文化されたのです。この法典によってチンギス・ハンは身分や文化、宗教が異なる人々を一元的に管理することが可能となりました。

 

チンギス・ハンが宿敵とみなした中国。1211年、かつてない大遠征が始まりました。モンゴル軍は鉄壁を誇った万里の長城を迂回し、中国の領土に攻め入りました。

 

チンギス・ハンにとって中国は征服の対象でした。モンゴル帝国が拡大するには中国侵攻は避けられませんでした。チンギス・ハンは万里の長城を迂回しましたが、これはモンゴル軍の典型的な戦略でした。激しい抵抗が予想される場所は避け、無防備な町や村を狙ったのです。

(シカゴ大学 ジョン・ウッズ教授)

 

1215年、ついにモンゴル軍は中国の首都攻略に着手。目の前に立ちはだかったのは難攻不落の城壁。城攻めには慣れていなかったモンゴル軍。どのようにして城壁を突破したのでしょうか?

 

重要だったのは組織としての柔軟性です。実は、モンゴル軍に秘密兵器はありませんでした。その代わり現実にそくした高い適応力があり、敵の戦術が優れていればすぐに取り入れました。中国の首都を攻略した時も、城攻めに向いた新兵器を導入したのです。

(シカゴ大学 ジョン・ウッズ教授)

 

中国の都が陥落するまで容赦のない攻撃は1ヶ月にも及んだと伝えられています。

 

チンギス・ハンの死

チンギス・ハンの死は謎に満ちています。一説には中国へのさらなる遠征中、落馬がもとで命を落としたと言います。

 

チンギス・ハンが死んだのは65歳前後の時だったと言われています。その死後、難題が持ちあがりました。チンギス・ハンは反乱の火種にならないよう、自らの死を伏せるよう言い残していたのです。噂が広まらぬよう、遺体を運ぶ姿を見た者は誰であれみな殺されたと言います。

(シカゴ大学 ジョン・ウッズ教授)

 

チンギス・ハンが命を引き取った中国の内陸部。遺体はそこから厳重な警戒のもと聖なる山ボルハン・ハルドゥンまで運ばれたとみられています。

 

聖なる山に歴代皇帝が埋葬されているという説は、モンゴル帝国を訪れたマルコ・ポーロの文章からも裏付けられます。

 

チンギス・ハンの血を引くモンゴル帝国の皇帝は、どこで命を落とそうとたとえ百日がかりの旅路になろうと大いなる山へ運ばれて埋葬された。彼らは他の土地に葬られることを忌み嫌ったのである。

(マルコ・ポーロの旅行記より)

 

データを詳しく検証した結果、ボルハン・ハルドゥンに築かれた丘の正体が明らかになりました。調査チームは中国皇帝の墓と同様に、周辺で採取した砂を使って建設したと結論づけました。現在のところ、モンゴル政府が発掘調査を認める可能性は低いです。しかし、ジスカールたちはこの丘の地中深くにチンギス・ハンの亡骸が眠っていると確信しています。

 

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史上最大のミステリー チンギス・ハン 幻の墓を探せ!

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