紫禁城の秘密|地球ドラマチック

驚異の木造建築群

紫禁城は世界の歴史上かつてない究極の巨大建築群です。北京の中心に位置し、900もの建物が並んでいます。完成は1420年。豪華絢爛な宮殿であるとともに、堅牢な要塞、そして絶大な権力の場でした。

 

過去500年に渡り、アジアにおける重要拠点でした。経済的にも政治的にも軍事的にもです。

(歴史学者ロビン・イェーツ)

 

入口の午門(ごもん)をくぐると、その先には壮大な外朝(がいちょう)が広がっています。内金水河(ないきんすいが)と呼ばれる人工の川には5本の大理石の橋がかけられています。

 

紫禁城の広さはヴェルサイユ宮殿の10倍近くもあります。

 

紫禁城はまさに世界最大級の宮殿です。現存する宮殿だけでなく歴史上建設されたあらゆる宮殿の中で最大の規模です。

(建築史学者ジョナサン・ダグデール)

 

外朝には、3段になった大理石の基礎の上に3つの建物がそびえています。その先にあるのが内廷。皇帝が暮らした場所です。

 

紫禁城の総敷地面積は72万㎡。南側に外朝、北側に内廷が広がっています。内廷は皇帝とその息子、宦官以外は男子禁制とされ、何百もの建物が並んでいます。それら全てが城壁と幅50メートルの堀で囲まれています。

 

紫禁城の部屋は元々9999室ありました。最も尊い数とされる1万は天だけに許されるとされ、それよりも少ない部屋数にしたのです。内廷にはいくつもの寺院、庭園、皇帝のための後宮があり、大勢の側室と宦官がいました。紫禁城は退廃と裏切りの温床、そして何よりも権力の中枢でした。

 

しかし、根本的な謎が一つあります。建築技術が発達する前の時代、どのようにしてこれほどの建造物を築けたのでしょうか?

 

オリジナルの図面などは現存しないため、紫禁城がどのようにして築かれたかを示す記録は残っていません。

 

絶対権力者 永楽帝

明王朝は1368年から300年近くに渡って中国を統治しました。紫禁城は明王朝第3代皇帝・永楽帝によって建造されました。戦いに秀で学問に精通し、無数の命を奪った人物です。

 

永楽帝は皇帝の座を約束された人物ではありませんでした。1402年、いとこの建文帝に反旗を翻し、激しい内戦のすえ皇帝の座を奪い取ったのです。永楽帝は明王朝最初の都・南京を襲撃し火を放ちました。

 

永楽帝は南京を焼き尽くし、北京に新たな都を作ることを宣言しました。永楽帝は新たな都の中心に紫禁城を築くことで、自分の力を誇示しようと考えました。紫禁城の破格のスケールは、永楽帝の野心の大きさを表しているのです。

 

世紀の大プロジェクト

紫禁城の建設は周辺の風景まで変えてしまいました。大規模な建設工事は大きな困難にも直面しました。

 

北京は環境にも天候にも恵まれませんでした。洪水や飢饉、いなごの大発生にも対処しなくてはならなかったのです。

(歴史学者ロビン・イェーツ)

 

全ての労働力と資材が北京に集められました。

 

太廟(たいびょう)は1420年、先祖をまつるために永楽帝によって建設されました。永楽帝は自身と明王朝の先達との繋がりを強調するため宗廟に参拝したのです。

 

資材を北京まで運搬するため、建設者たちは驚異的な技術で大運河を建設しました。

 

中国の大運河はパナマ運河やスエズ運河よりも長く、しかもずっと古い時代に作られました。様々な問題を当時の技術で見事に克服しています。

(水文学者ジム・グリフィス)

 

運河は全長1700km。杭州から揚子江や黄河とも繋がり、最終的に北京まで続きました。水の流れは南旺という町で調整されました。

 

南旺では川の流れが変えられ、運河に水が供給されました。しかし、小高い地形が運河の妨げになったため、技術者たちは巨大なこう門を考えだしました。船を上昇させるために川から運河に水が注ぎこまれました。また、貯水池として大きな湖が3つも掘られました。船は5km以上に渡っていくつものこう門を通り抜け運河を上っていきました。

 

大運河のおかげで巨大な楠木の丸太を水に浮かべて北京まで運べるようになりました。毎年2万隻の船とともに北京の建設現場で働く労働者たちの食糧として4億2000万リットルもの穀物が軍の護衛つきで運ばれました。

 

紫禁城の建設のために人々はお金、物資、そして命という形で犠牲を払いました。

 

何万という人々が飢え死にしました。永楽帝はこの事業のために受刑者も軍隊も農民も働かせました。そして絞れるだけの税金を搾り取りました。

(歴史学者ロビン・イェーツ)

 

多くの犠牲の上に建設された紫禁城。その中ではどんなことが繰り広げられていたのでしょうか?

 

潜入!華麗なる宮殿

皇帝は内廷の中の内裏に暮らしていました。乾清宮(けんせいきゅう)です。

 

永楽帝は毎朝4時頃に起き、皇帝だけが通ることができる中軸線を通ってやってきました。朝礼の儀を行うためです。

(歴史学者ロビン・イェーツ)

 

夜明け前になると何千人もの宦官が太和殿の前の広場を静寂のうちに埋め尽くし、地を頭をつけて皇帝に拝礼しました。

 

皇帝は日々の儀式やしきたりを通じて、常に自分こそ統治者にふさわしい天命を受けた者であることを証明する必要がありました。

 

1420年12月、紫禁城は完成しました。お披露目の式典には各国の外交官や政府高官がやってきました。記録によれば来賓は30万人、2000人の楽師と踊り子、そして同じくらいの武装衛兵がいたと言います。

 

紫禁城は永楽帝が暮らす皇宮であり、帝国を統治する本部でもありました。しかし、紫禁城はその後、何世紀もの間にいくどとなく脅威にさらされました。反乱や内戦、侵略、自然災害です。

 

地震との闘い

北京は非常に活発な地震帯の上にあり、しかも危険な断層が1000キロにも渡って存在しています。600年の間に紫禁城は200回もの地震に耐えてきました。

 

1976年には、北京の東150キロの唐山を震源としたマグニチュード7.8の地震が起こりました。15秒で25万人もが命を奪われ、唐山は壊滅状態に陥りました。

 

大地震が襲った場合、最悪のシナリオとして考えられるのは円柱が折れ、梁や接合部にヒビが入り屋根が落ちることです。紫禁城はどのようにして地震を耐え抜いたのでしょうか?

 

地震に強い設計の秘密は柔軟性にあります。木造のパーツは一つでも組み合わさっても機能するのです。屋根が重いのも、上から圧がかかることでバランスがとれるのです。

 

時代を超える修復事業

紫禁城は、地震には耐えてきましたが、一つだけ避けられない脅威がありました。火事です。原因は失火の場合もあれば落雷の場合もありました。豪奢な太和殿は何度も焼失しました。

 

実は7回も建て直されています。そのたびに新しい時代の技術が取り入れられました。

(建築史学者ジョナサン・ダグデール)

 

紫禁城は現在も再建され、修復されています。

 

 

永楽帝は紫禁城完成から4年後に亡くなりました。それは遠征のさなかの死でした。

 

晩年、永楽帝は臣下の反対を押し切って戦地に赴きました。亡骸は厳かに埋葬されるべく北京の都に運ばれました。

(歴史学者ロビン・イェーツ)

 

永楽帝は北京郊外の陵墓・長陵に弔われました。

 

永楽帝が残した遺産の一つは物理的に今も見ることのできる紫禁城です。そして、もう一つ重要な遺産があります。それは、時代を経て存在し続ける大国・中国の基盤をかためたことです。

(歴史学者ロビン・イェーツ)

 

永楽帝の死後500年の間に23人の皇帝が紫禁城から中国を治めました。最後の皇帝は幼くして即位した清王朝第12代皇帝・溥儀。辛亥革命によって1912年に退位しました。

 

1925年、庶民には立ち入ることが許されなかった紫禁城が一般公開されました。

 

紫禁城は数多の人々の犠牲と引き換えに一人の皇帝の大いなる野望が生み出した最高傑作なのです。

 

SECRETS OF CHINA’S FORBIDDEN CITY
(イギリス/中国 2017年)

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