鳥獣戯画~奇想の絵巻誕生の謎~|日曜美術館

NHK・Eテレの「日曜美術館」で奇想の絵巻誕生のなぞ~鳥獣戯画~が放送されました。国宝「鳥獣人物戯画」は擬人化された動物たちが繰り広げる日本美術史上最高のエンターテインメントです。ユーモア溢れるその世界は漫画の元祖とも言われています。しかし、その裏にもう一つの顔があります。それは謎の絵巻。誰が何のために描いたのか、確かな資料は何も残されていません。

 

鳥獣戯画は全て合わせると長さ44mにもなります。甲・乙・丙・丁の4巻仕立ての絵巻物です。最初の甲巻が絵巻の始まりです。森の中でうさぎや猿たちが川遊びに興じています。柄杓を手にしたウサギは猿が背中を洗うのを手伝っています。乙巻は麒麟など空想上の霊獣が登場します。ゾウなど実在の動物も一緒に描かれ、夢と現実が入り混じる不思議な動物図鑑です。甲・乙から数十年後に描かれたとされるのが丙巻。甲巻を手本に別の絵師が描いたと考えられています。ユーモアは変わりませんが少しグロテスクです。最後の丁巻に登場するのは老若男女。身分も様々な人間たちです。

 

鳥獣戯画は国宝に指定される名画でありながら、いつ誰が何のために描いたのか一切記録が残されていません。描かれたと推定されるのは12世紀~13世紀。作者は鳥羽僧正という説が有力とされてきました。鳥羽僧正は平安時代後期、位の高い僧侶であると同時に当代随一の絵の腕前を誇りました。奇想天外な画風は他に例がないとされ、長く鳥獣戯画の作者だと語られてきました。しかし、現在確かな記録がないことからその説は疑問視されています。他にも武士や宮廷絵師が描いたとする説がとなえられながら答えは見つかっていません。作者も描かれた目的も分からない鳥獣戯画ですが、今年長年の謎に迫る新たな事実が発見されました。

 

鳥獣戯画が描かれたとされる平安時代には絵巻の名品が数多く作られました。「源氏物語絵巻」は平安貴族の雅な世界が豊かな色彩と繊細な筆で表現されています。こうした絵巻は時の権力者が作らせたもの。自らの権威を世に示し一族の繁栄を祈るため、最高の絵師、最高の絵の具や紙を使って描かせました。しかし鳥獣戯画が描かれている和紙は日用品。しかも何かに使った後リサイクルしたものです。鳥獣戯画研究の第一人者である文星芸術大学の上野憲示さんは、鳥獣戯画は献上品などではなく絵師が遊びのように戯れで描いたものではないかと考えています。平安時代、絵師たちは天皇や貴族から発注を受け絵巻や寺の仏間の制作に精力を注ぎました。そこでは何より雅で繊細な線で描くことが求められました。そんな時代に描かれた意外な絵が平等院鳳凰堂の扉絵。表から見えない所に残された落書きです。人物や草花が伸びやかな線で描かれています。そこには絵師たちの内に秘めた思いが表れていると言います。

 

鳥獣戯画にまつわる数々の謎の中でも特に研究者たちを悩ませてきたのが丙巻。物語が何とも不自然な流れになっているのです。まずは人間の場面から始まります。人間たちが繰り広げるユーモラスな場面の数々。問題はその先です。あるところで世界が一変します。普通、絵巻は見る者の目を導くように右から左へ物語が繋がっていきます。しかし丙巻では人物の場面が続いていくかと思いきや、一つの紙の継ぎ目を境に突然動物たちの世界に変わってしまうのです。絵巻の常識ではありえない不思議な展開です。多くの研究者がその理由を解き明かそうとしてきましたが、これまで糸口すらありませんでした。それが修復で重要なヒントが見つかったのです。

 

修復にあたった大山昭子さんは作業に取り掛かった時から丙巻を見て気になることがありました。それは意図して描いたとは思えないシミのような墨。濃いものから薄いものまでいたるところにありました。それがある時、どこかで見た形だと思い至ったのです。烏帽子に似たシミを見つけ、大山さんは同じ丙巻の中に烏帽子をかぶった人たちがいたことを思い出しました。ためしに烏帽子を動物の場面にあったシミに重ねてみると、シミの形だけでなく一つ一つの位置までピタリと重なったのです。その瞬間、一つの答えが浮かびました。人物と動物の場面は元々一枚の紙の両面に描かれていたというのです。あい剥ぎと呼ばれる伝統的な技を使うと2枚に剥がすことが出来ます。丙巻の奇妙な流れは、どうしてそうしたか今もって謎ですが、そもそも一繋がりではなかった場面を強引に繋ぎ合わせていたのです。

 

鳥獣戯画と呼ばれるようになったのは明治以降と言われています。古くは「獣絵」や「シャレ絵」と呼ばれていました。その世界は後の絵師たちにも影響を与えました。そして現代、シャレ絵は国宝として日本美術の最高傑作の一つに数えられることとなったのです。では、なぜ戯れに描かれた絵が今日まで伝えられてきたのでしょうか?

 

奈良時代に創建された高山寺は鳥獣戯画を守り継いできた寺として知られています。高山寺に鳥獣戯画がいつおさめられたのか、確かなことは分かっていません。いくつかの文献から想定すると13世紀、鎌倉時代のはじめ頃と考えられています。鳥獣戯画は戦乱の時代、幾度も危機に見舞われました。焼き討ちにあい寺がほぼ全焼する惨事の中でも僧侶たちが必死に救い出し守ってきたのです。高山寺にとって鳥獣戯画は本尊に等しい存在。それほどまで大切にされた背景には、高山寺で修行を重ねた明恵上人の存在がありました。明恵が生まれたのは平安末期の激動の時代。幼くして両親を亡くし9歳で仏門に入りました。「仏眼仏母像」は明恵が若い頃から手元においていた絵です。23歳の時、雑念を振り払おうと、この像の前で自らの右耳を切り落としました。明恵自身が書き込んだ「无耳(みみなし)法師の母御前也」の文字。亡き母の面影をこの像に重ねたと言います。明恵が自ら発案して作らせた「華厳宗祖師絵伝 義湘絵」を使い、当時立場の弱かった女性にも仏の道を説いたと言います。動物をこよなく愛した明恵は子犬の像をいつも傍らに置いていました。生きとし生けるものを全て等しく尊い存在であると明恵が説いた華厳の思想を人々は鳥獣戯画に重ね、その教えを伝えるよすがとしたのかもしれません。