幻の指揮者ムラヴィンスキー|ららら♪クラシック

眼光鋭き孤高の指揮者エフゲーニ・ムラヴィンスキー。旧ソ連時代、半世紀ものあいだ世界屈指のオーケストラ「レニングラード・フィル」の首席指揮者として君臨した人物です。監視の厳しい社会に生きながら信じる音楽のためにはどんな圧力にも屈しなかった男です。

「鉄の結束」のオーケストラ

エフゲーニ・ムラヴィンスキーはごく限られた手の動きと鋭い眼差しに、100名を超す楽団員全ての意識を集中させ一糸乱れぬアンサンブルを作り出しました。堅く結ばれた楽団員との絆は今もクラシック界の伝説です。

ムラヴィンスキーの指揮のもとで演奏できたことで、初めて本物の音楽家になれたように思います。(元レニングラード・フィル バイオリン奏者 リュドミーラ・オディントソワ)

言うまでもなくムラヴィンスキーはとても気難しい人で一緒に仕事をするのはかなり大変でした。でも、なぜ彼がそれほど厳しくするのか、ほとんどの場合私たちにはわかっていました。(元レニングラード・フィル 第2バイオリン首席奏者 ヤッシャ・ミルキス)

鉄壁とも言われたアンサンブルの秘密は、リハーサルにありました。細かく区切り一音一音納得するまで突き詰める、リハーサルは一曲につき1週間~10日続きました。

彼が指を1本動かすだけで、眉を片方動かすだけで私たち全員にすぐその意味が分かったものです。(元レニングラード・フィル バイオリン奏者 リュドミーラ・オディントソワ)

ムラヴィンスキーにとっては目で合図を送る方が大きな手振りをするよりずっと重要だったと思います。彼は長年レニングラード・フィルの指揮者だったので、このオーケストラは自分の楽器のようなものでした。(元レニングラード・フィル バイオリン奏者 アレクサンドル・ボリアニチコ)

ムラヴィンスキー夫人アレクサンドラ・ヴァヴィリーナさんは現役の音楽家です。実は彼女は元レニングラード・フィルの首席フルート奏者でした。

夫は作品を作り上げるという点で妥協しない人でした。どのように弾くべきか楽団員が本当に理解したと感じるまで続けた。夫が要求したのは楽譜に対し音の強弱がきちんと合っているか、そして楽団員それぞれがきちんと聴く事。この強さで十分かそれとももっと音を強めるのか。

(アレクサンドラ・ヴァヴィリーナ)

妥協は決して許さないという姿勢は、他人以上に自らにも向けた姿勢でした。リハーサルを離れても1日4時間スコアと向き合い緻密に分析することが晩年まで日課でした。

スコアは徹底的に読み込まれていました。作曲家の意図まで入り込んで、その雰囲気の中で自分も作品の創造に「参加している」と感じなければならない。それが指揮者の使命だと考えていました。作品がその後長生きできるか短命かその運命は指揮者の手の中にあるのだと。もし作曲家が望んだ高みに上げられたらずっと生き続ける。そして、自分が準備してきたものとオーケストラとの間の境目を無くすことに徹底していました。それがリハーサルの目的。

(アレクサンドラ・ヴァヴィリーナ)

70年代来日 巨匠の生い立ち

ムラヴィンスキーが日本に来たのは70年代に4回だけです。「鉄のカーテン」の向こうの幻の指揮者ゆえ演奏会は貴重で人々を熱狂させました。

ムラヴィンスキーは1903年、サンクトペテルブルグの貴族の家に生まれました。当時は帝政ロシアの時代、貴族は特権階級として豊かに暮らしていました。

しかし、14歳の時にロシア革命が起こりました。貴族の身分は剥奪され財産も全て没収されました。音楽院の受験でも貴族の出身だという理由で入学を拒絶されたことも。レニングラード・フィルの指揮者になってからも共産党が亡命を恐れて厳しく監視しました。

何回か嫌なことがありました。党が介入してきたのです。彼を国外に出してはいけないと。オーケストラはすでに手続きを終えもう出発という時点でムラヴィンスキーは出国禁止、思想的に良くないからとか貴族だからという理由です。でも彼にはかえって好都合でした。彼は旅行が嫌いだったのです。とにかく党の指示に従わなければ国外に行けないと脅されていたのです。

(アレクサンドラ・ヴァヴィリーナ)

飛行機が嫌いで鉄道と船を乗り継いでやってきた日本。普段とは違う笑顔を見せていたと言います。

信じる音楽のために

ムラヴィンスキーの音楽人生に欠かせない作曲家がいます。ドミートリ・ショスタコーヴィチです。2人の信頼はあつく、ムラヴィンスキーは彼の交響曲全15曲のうち7曲の初演を手掛けています。

しかし、当時はスターリンによる厳しい圧政が続く時代。1948年、ショスタコーヴィチに事件が起こりました。彼の作品が体制にふさわしくないと批判され、ソビエト連邦作曲家同盟の特別会議に呼び出されたのです。

この時、ムラヴィンスキーが立ち上がりました。指揮者生命をかけ演奏会であえてショスタコーヴィチを取り上げたのです。曲目は交響曲第5番。

交響曲第5番の演奏会は大変な成功をおさめました。聴衆は大いに興奮して演奏が終わった後、ムラヴィンスキーは何度も何度もステージに呼び戻されたんです。そして彼はスコアを手に取り聖人画のように高々と掲げました。その時の聴衆の反応は言葉では言い表せません。総立ちになって爆発的に熱狂しました。お義理ではなく心からの反応でした。(元レニングラード・フィル 第2バイオリン首席奏者 ヤッシャ・ミルキス)

革命で夫と母親はすべてを奪われ家さえも失いました。しかし、夫と母親は言っていました。重要なのは音楽だと。音楽は自分自身を通っていくもの、自分の感情を通っていくもの。夫は音楽で言葉では表現できないものを表現できました。音楽は言葉よりも偉大なのです。

(アレクサンドラ・ヴァヴィリーナ)

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幻の指揮者 ムラヴィンスキー

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