原敬の挑戦と挫折 平民宰相はなぜ殺されたのか|歴史秘話ヒストリア

逆風の中の旅立ち

1856年、原敬(はらたかし)は南部藩で家老をつとめた裕福な武士の家に生まれました。ところが、11歳の時に戊辰戦争が勃発。旧幕府側に立った南部藩は敗北し、朝廷に歯向かったとされ朝敵の烙印を押されました。藩と共に原家も没落しました。

 

負け組からの逆転劇

原敬は家老までつとめた士族の肩書を捨て、自ら平民となる道を選びました。原敬が使った鉄瓶には「一山」と刻まれています。原敬が名乗った雅号です。

「白河以北一山百文」
(白河の関より北は山一つに百文の価値しかない)

新政府の人間が東北地方を蔑んだ言葉と言われています。

 

一山は戊辰戦争の屈辱を忘れないという以外にも、逆境をバネにして裸一貫から這い上がると。新しい時代を身分に関係なく自分の力で生きていこうという決意の表れと言えるのかもしれないです。

(原敬記念館 主任学芸員 田﨑農巳さん)

 

経験を積む日々

そして原敬は東京に出ました。自分以外に頼るものがない若者が世に出る手段は学問でした。苦しい生活の中、猛勉強をしフランス語などを身につけていきました。

 

1879年、原敬は新聞社に入社。初めの仕事は主に外国語の新聞の翻訳でした。

 

そして、自由民権運動に接することになりました。まだ議会がなかった日本。議会を作り国民の声を政治に反映させるべきだ。そして、この運動に欠かせなかったのが公論でした。

 

次第に力を認められ論説を書くまでになった原敬。政治に深い関心を持つようになりました。しかし、このころ原敬のような立場の国民が政治に参加する道は閉ざされていました。国政を主導していたのは一握りの人間たち。明治維新の中心となった薩摩や長州などの出身者が作る藩閥です。後に藩閥の有力者に公家出身の西園寺公望を加えた元老たちは、総理大臣を決めるほどの大きな力を持ちました。

 

政府の藩閥の影響下にある状況で、期待されたのが政党でした。国民の意思をくみ取り政策として実現することを目指す団体です。原敬は、藩閥主導の政治から政党主導の政治に変わるべきだと考えるようになりました。

 

1882年、26歳の原敬はフランス語の能力を武器に外務省へ入りました。3年後、外交官としてパリ勤務を命じられました。華やかなパリにありながら、原敬はプライベートな時間のほとんどを勉強に費やしたと言います。

 

若き日の出会い

地道な努力は帰国後、陸奥宗光に見いだされ花開きました。陸奥宗光は藩閥に属さない和歌山藩の出身で、政府の中枢にいながら藩閥に対抗していました。

 

原敬は陸奥宗光に取り立てられ、外務省通商局長という要職につきました。2人は日本の悲願、欧米との不平等条約の改正交渉にあたりました。外交を舞台に原敬は政治の駆け引きを学んでいきました。

 

陸奥閣下が最も手腕を振るわれた頃、私は全力でお助けした。

「原敬日記」より

 

よく議論を戦わせたという2人。時にはこんなやり取りも。

「君は吾輩の部下ではないか。まず吾輩は大臣だ。君は局長でありながら上の大臣の命令には従えぬというなら辞職したらよかろう。」

「いかにも私は閣下の部下にすぎぬ者です。さりながら、議論としてはあくまで閣下のお説に服することはできません。」

「原敬伝」より

 

変わる日本政治

この頃、藩閥の壁を突き崩すチャンスが訪れました。新たな政治制度が始まったのです。

 

当時、政府を動かしていた大臣や参議は藩閥公家出身の人間が占めていました。そのため、政府は藩閥の強い影響下にありました。1885年、内閣制が誕生。身分に関係なく誰もがなれる大臣が政府を主導することになったのです。

 

とはいえ、初代総理大臣は藩閥の有力者・伊藤博文でした。選挙の後、初めての議会が開かれました。1900年、伊藤博文は政党「立憲政友会」を作りました。政党政治の到来を予測し、主導権を握ろうと考えたのです。その立憲政友会に飛び込んだのが原敬でした。

 

その後、原敬は実力を買われ伊藤内閣の逓信大臣に就任。一山百文と侮られた東北地方の出身者として初の大臣でした。

 

「政党政治」を目指せ

当時、実質的に総理大臣を選んでいたのは藩閥の有力者などが集まった元老たち。その中心にいたのが山県有朋(やまがたありとも)です。

 

一方、原敬が目指していたのは議会で多数を取った政党が中心となって内閣を組織し政治を行う政党政治でした。

 

原総理誕生と「我田引鉄」大批判

政友会に参加して14年、原敬はついに総裁の座を手に入れました。その矢先、第一次世界大戦が勃発。日本でも戦争の影響で物価が上昇。国民生活は大打撃を受けました。米騒動が起き、各地で暴動が相次ぎました。

 

対応にあたったのは山県有朋が強い影響力を持つ藩閥政府。警察や軍隊を出動させ騒動を鎮圧。しかし、民衆に武力を向けたことに非難が集中。内閣は総辞職に追い込まれました。

 

打倒!藩閥政治

山県有朋は次の総理大臣に元老の西園寺公望を推薦。影響力を持ち続けようとしました。ここで原敬が動きました。政党を嫌う山県有朋をこう脅しました。

 

自分以外の政治家を推すなら、他の政党と提携し大規模な民衆運動を起こす。

 

民衆の力を恐れた山県有朋。目論見は成功しました。

 

「平民宰相」誕生

1918年9月29日、原敬は衆議院第1党の総裁として内閣総理大臣に就任日本初の平民宰相として民衆の期待を集めました。原敬は組閣にあたって、ほとんどの閣僚を自らの党から選びました。国民の意思を代弁する政党が主導する政治、本格的政党政治が始まったのです。

 

VS.山県有朋

ところが、山県有朋が巻き返しに出ました。実は立憲政友会の議席は議会の過半数に達していませんでした。山県有朋は議会運営の主導権を原敬に与えないよう、藩閥の影響が強い新党の結成をはかりました。

 

それに対し原敬も、策をくり出しました。選挙法の改正です。当時、投票の資格は25歳以上の男性で、税金を10円以上納めている人にだけありました。原敬はそれを3円に引き下げました。すると有権者は倍以上に増え、その多くが政党政治を支持する層でした。

 

1920年5月、選挙制度を有利にしたうえで原敬は衆議院選挙にうって出ました。その結果、政友会は衆議院の6割の議席を得る圧勝でした。

 

国民の意思を基礎に

国民の意思を基礎として国政を料理するにあらざれば不可なり

「原敬日記」より

政策の柱は日本の近代化。自ら「積極政策」と名付けました。原敬は交通や通信、教育や医療などの様々なインフラを整備、拡充していきました。その対象は地方の村々にも及びました。中でも力を入れたのが鉄道網の拡張です。

 

しかし、批判の声が上がりました。その際によく使われた言葉が「我田引鉄」です。政友会の議員は自分の選挙区に鉄道を敷き票を得ようとしている。いわゆる利益誘導を疑われたのです。

 

地方を豊かにするために

どんな批判を受けても原敬は突き進みました。原内閣が議会に提出した鉄道の計画は149路線。都市部の路線だけでなく地方の路線の敷設を積極的に推進しました。

 

都市と地方の格差が今より大きかった時代。豊かさを等しく実感できる社会こそ、原敬の願いだったのです。

 

平民宰相はなぜ平民に殺されたのか

1921年、総理大臣となって3年目をむかえ原敬の人気は急落していました。最大の理由は原敬が普通選挙の導入に反対していたことでした。

 

当時、有権者は25歳以上の男性の4分の1。その全てが投票できる男子普通選挙が強く求められていました。

 

今はまだ普通選挙の時期ではない

「原敬日記」より

 

平民宰相のイメージは大きく損なわれていきました。少しずつ前進すべき、というのが原敬の真意でした。原敬は日本の国民性を鉄に例え新旧の思想の調和をとなえました。

 

日本には「鉄」のごとき国民性が存在する。「鉄」は硬いが鍛えて形を変えることもできる。この国民性をもって我々は古い思想に新しい思想を調和させていくべきである。

「新日本を旧日本の上に」より

 

忍びよる暗殺の影

中岡艮一(なかおかこんいち)は鉄道員のわずかな給料で家族を養っていました。ささやかな楽しみは映画の脚本を書くこと。胸を高鳴らせ脚本の懸賞に応募しましたが落選。報われない日々を過ごしていました。

 

この頃、政友会のスキャンダルが新聞をにぎわせていました。政友会の関係者が政府傘下の会社に鉱山を高く売りつけ莫大な利益を得た。しかも、その利益は政友会に流れている。野党は党の腐敗は総裁の責任として原敬を糾弾しました。

 

中岡は原政権の腐敗や横暴に憤る世論に同調し怒りをたぎらせました。

 

1921年8月、原敬は全国遊説の旅に出ました。国民に直接語り掛け信頼を取り戻すためでした。10月、地方での遊説を終えた原敬は列車で東京に戻ろうとしていました。その車中に中岡が車掌に扮して潜んでいました。遊説の日程を調べ原敬がその列車に乗ることを知ったのです。

 

列車に客車が増結され、いつもとは車両の位置が違いました。中岡はこの日の暗殺を断念しました。

 

1921年11月4日

1921年11月4日、京都での党大会に出席するため原敬は東京駅に向かいました。午後6時、東京駅丸の内南口に中岡が姿を現しました。午後7時20分、原敬が駅に到着。駅長室に入りました。その5分後、改札に向かおうとする原敬がやってきました。一瞬の出来事でした。

 

原敬の胸を貫いた刃は肺から心臓へ達し、原敬は亡くなりました。享年65。志し半ばの死でした。

 

故郷・盛岡に原敬が最後の日に身に着けていた服が残されています。シャツの襟もとに血とは別のシミがあります。赤ワインです。原敬が刺された直後、駆け付けた医師が気付け薬として飲ませたワインが口からこぼれたのです。

 

批判にさらされながらも原敬は金銭に対して清廉潔白な態度を貫いたと言われています。楽しみといえば晩酌にたしなむワイン1杯ぐらい。それを最後に一口含み原敬は息を引き取りました。

 

葬儀は盛岡で行われました。当時の盛岡市の人口は4万2000人。葬儀には3万人が参加し原敬の死を悼みました。

 

原敬が死の9か月前にしたためていた遺書の冒頭にはこう書いてあります。

 

たいそうな位や勲章は絶対に受けない。墓には私の名前以外記す必要はない。

 

栄誉はいらない、最後まで一人の平民として人生を全うしたい。それが原敬の望みだったのです。

 

「歴史秘話ヒストリア」
平民宰相はなぜ殺されたのか
原敬の挑戦と挫折



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