30年間、日本人の死因第一位のがんですが、元大学病院医師の近藤誠(こんどうまこと)さんは医療界の常識を覆す数々の意見を30年間訴え続けてきました。
これまで著書を30冊以上も出版し、常に注目を集め続け、2012年に発売された「医者に殺されない47の心得 医療と薬を遠ざけて、元気に、長生きする方法」は108万部のベストセラーに。さらに、がん治療における先進的な意見を一般人にも分かりやすく発表し続けてきた功績をたたえるとして、2012年に菊池寛賞を受賞しました。
しかし、彼の意見は医療界から間違っているという指摘も多くあります。そんな近藤誠さんによる最も異端と言われる理論は「がんには本物のがんとがんもどきがある。がんの9割は治療するほど命を縮める。放置がいちばん」というもの。
そもそもがんとは、遺伝子変異によって異常増殖する細胞集団。つまり悪性腫瘍のことを言います。がん自体には毒性はなく、死亡するのは腫瘍が重要な臓器へ転移し、呼吸や解毒作用などに障害を及ぼしてしまうため。
しかし、近藤誠さんによると、がんの中でも他の組織への進行・転移性がないものがあると言います。これを「がんもどき」と呼んで区別し、治療は必要ないというのです。
後藤公一さん(65歳)は2013年4月に進行性の胃がん、早期の胃がん2ヶ所、食道がんが2ヶ所見つかりました。当時、近藤誠さんの本を読んでいた後藤さんは自覚症状がなかったため手術を拒否し放置を選択しました。
2013年12月、近藤誠さんのセカンドオピニオン外来へ。経過を報告し意見を聞いてきたと言います。2014年5月、貧血に。胃酸と血が混じり黒色になった便・タール便が出たためでした。内視鏡で検査をすると胃がんが1cmほど大きくなり出血していました。病院での診断によるとステージ3。近藤誠さんの指示で病院で止血の処理をしてもらいましたが、がんに対する治療は行いませんでした。一方、食道がんは消えたと言います。
このがんもどき理論には医療界からの批判が多くあります。がんには進行が速いもの、遅いもの、消えるものがあるなど様々で、本物ともどきの二元論で判断できるものではない、進行がんでも適切な処置を施すことで治療は可能、早期発見した進行がんに対し患者が治療を断り放置を選択したために治せたはずのがんが手遅れになったケースもあると言います。
さらに、近藤誠さんは「がんの手術は命を縮める」「抗がん剤は9割のがんで延命効果がない」なども提唱しています。イタリアで行われた子宮頸がんの比較によると、子宮全摘の手術と放射線だけの治療で生存率、再発率はほぼ一緒で、合併症は全摘の方が可能性が高かったと言います。
抗がん剤が9割のがんで効果がないと言っても、急性白血病・悪性リンパ腫など血液のがん、睾丸腫瘍、子宮毯毛がん、小児がんは抗がん剤で治る可能性があると言います。
日本癌治療学会の診察ガイドラインには、様々ながんについて基本的には手術や抗がん剤、放射線などで治療にあたることが記載されています。さらに、抗がん剤については、抗がん剤を専門に扱う腫瘍内科医である勝俣範之さんが著書でこう指摘しています。
全ての抗がん剤が100%効果がないというわけではありません。効果がある場合もあるし、効果がない場合もあるのです。単独で完治させてしまうような薬はまだ少ないのが現状ですが、少しずつではあっても明らかに抗がん剤治療は進歩しています。抗がん剤の延命効果は肺がん、胃がん、大腸がん、肝胆膵がん、婦人科がんなど、ほとんどの固形がんで示されるようになりました。抗がん剤治療は副作用によってQOLを低下させることは間違いないので、治療によって得られる延命効果とうまく天秤にかけて、患者さんと相談する必要があります。抗がん剤をやめなさいと声高に、しかも一方的に主張するのは、患者さんの希望を無視した押し付けでしかないのではないでしょうか。
なぜ異端の医師になったのか?
近藤誠さんは、1948年に東京都中野区で開業医の長男として生まれました。有名私立大学の中等部・高等部へと進学。成績はいつも学年トップ。大学では父と同じく医学部へ進み首席で卒業。1973年に大学病院の放射線科に入局しました。
数ある専門の中で放射線科を選んだ理由は、がん治療の中でも将来性があり最先端の技術で命を救う仕事だと考えたからです。
しかし、近藤誠さんはすぐに現実を目の当たりにしました。当時、放射線病棟はほとんどががん患者で、手術をしたが再発または転移した人、手の施しようのない末期の患者が回されてくる場所でした。そのため、放射線科へ入院した患者のほぼ全員が亡くなるという現実があったのです。
また、初めて立ち会った乳がんの手術では彼にとって驚きの光景を目の当たりにしました。当時、乳がんの手術ではハルステッド法という乳房を全て摘出し転移の恐れがある胸の筋肉まで全て切除する方法が主流でした。乳がん=乳房全摘出は当たり前という時代。しかし、ハルステッド手術は運動機能はもちろん心理的にも患者への負担が大きいものでした。
また、当時がん治療において告知はタブーだったため、医師たちは患者に苦しい嘘をつかなくてはなりませんでした。がんと知らされないまま死期が迫ると、個室へ移動させる決まりとなっていました。患者はみな個室への移動を嫌がり、自分ががんであることを知らないものの、個室へ移動した人は二度と戻ってこないことを知っていました。
果たして告知しないことが本当に良いことなのか、近藤誠さんは日本の医学界に存在する不合理や不条理を感じるようになりました。
そんな近藤誠さんに転機が訪れました。1979年、アメリカで始まった新しい放射線治療の研究施設への派遣が決まったのです。近藤誠さんは、日本人としてただ一人、最先端の放射線治療実験に参加。アメリカの研究施設に来て近藤誠さんが驚いたのは、がん患者たちの表情が明るいこと。みな自らががんであることを知りながら前向きに治療に参加。日本の医療現場とは大きく異なるものでした。
近藤誠さんは研究所での仕事の合間に、医学雑誌の過去15年分のがん治療に関する論文を読破。さらに欧米各地の病院をまわり、最先端の放射線治療方法を学びました。そして1年後、帰国した近藤誠さんは数々の革命を起こしました。
ある日、外科から27歳の青年Aさんの放射線治療の依頼がありました。彼の病名はホジキン病。ホジキン病とは血液のがんで悪性リンパ腫の一つ。すでに外科では助からないと判断された患者でした。ルール通り、がんであるという告知はされませんでした。
しかし、近藤誠さんはタブーを犯し、がんであることを告知。するとAさんの母親が抗議にやってきました。それでも近藤誠さんの熱意に母親も理解を示しました。Aさんもがん治療に対し前向きに取り組むようになり、つらい放射線治療を乗り切ることが出来ました。
近藤誠さんは1983年に放射線科病棟医長に就任。さらに改革を推し進めていきました。放射線科の患者全員の主治医となり、タブーとされ続けたがん告知を病棟全てのがん患者に行ったのです。告知しても自殺者は出ず、むしろ治療に対し積極的になり表情も明るくなっていったと言います。
この取り組みはメディアにも取り上げられ大きな話題となり、その後医療界全体へと広がる先駆けとなりました。この頃から近藤誠さんは患者に威圧感を与えないよう白衣を脱ぎ、コミュニケーションを取りやすくしました。
Bさんは5年前にホジキン病と診断され近藤誠さんが放射線治療を行っていました。しかし、鼠径部に再発。前回、広い範囲の放射線治療を行ったため今回は照射することが出来ず、抗がん剤治療を決断しました。世界的にも悪性リンパ腫の再発に対しては一定の割合で効果が認められていたからです。そして抗がん剤治療が終了すると腫瘍も消え、Bさんは無事退院しました。
しかし5ヵ月後、抗がん剤の副作用で肺線維症にかかり緊急入院。7ヵ月後にBさんは亡くなりました。がんの再発で亡くなったのではなく、抗がん剤の副作用が原因でした。その後も抗がん剤の毒性について知識を深めた近藤誠さんは、臓器転移した患者への抗がん剤治療をやめたのです。
1983年の春、近藤誠さんの姉が乳がんと診断されました。当時、日本の乳がん手術はハルステッド法という全摘出がスタンダードでした。しかし、近藤誠さんはアメリカに留学中に乳房温存療法を知っていたため、温存療法をすすめ今も再発していないと言います。
その後、近藤誠さんは乳房温存療法の存在を知ってもらうため新聞やテレビなどメディアへ情報を発信し続けました。しかし、1985年までに近藤誠さんのもとで温存療法を行ったのは5人だけ。それは乳房温存療法でも外科の協力が必要でしたが、協力を得られなかったからでした。
1988年5月、文芸春秋に「乳がんは切らずに治る」と題した原稿を寄稿。病院内で孤立したものの、記事を見た乳がん患者が殺到。一時は国内の乳がん患者の1%が近藤誠さんのもとを訪れたほどだったと言います。
こうした近藤誠さんの活動も追い風となり、国内でも徐々に乳房温存療法が広まり、現在では6割の患者が行っています。
近藤誠さんはこれまで数万人のがん患者を診察し、10万時間を費やして世界の医学論文を読み研究する中である説に辿りつきました。それは「がんとは闘うな」ということ。
がんには本物のがんと放っておいても害のないがんもどきがあり、がん治療がかえって寿命を縮めていると主張。
治療で苦しむ患者をみてきたからこその極限とも言える主張は、強い批判と誤りの指摘を受けています。しかし、今も主張を変えることはありません。
「金スマ」
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