出会うはずのない二人が…新選組・斎藤一と会津藩・松平容保
嘉永6年(1853年)ペリー率いる黒船が来航し、独断で開国を決めた幕府の対応をめぐり各地で批判が高まるようになりました。幕府に不満を持つ勢力が集まったのが京都でした。「天誅」と称して幕府要人の暗殺が繰り返されるようになりました。
松平容保
この京都の混乱を鎮めるため幕府が頼ったのが、会津藩主・松平容保(まつだいらかたもり)でした。会津藩は代々徳川将軍家を守護することを使命としてきました。
第9代藩主・松平容保は生まれながら体の弱い人物でしたが、その使命感は強く京都へ行くことを決意しました。
文久2年12月、京都守護職として上洛。しかし、治安の悪化は想像を超えるものでした。松平容保が京都に連れて来た藩主は1000人。役目は多岐にわたり、全員で市中の取締りに当たることができるわけではありませんでした。
本来、治安の維持には京都町奉行所の役人たちがあたるべきでしたが、報復を恐れて尻込みしている有様でした。
その頃、江戸に国の行く末を憂いていた青年たちがいました。その一人が剣術道場の主・近藤勇(こんどういさみ)です。
近藤勇
農家の息子でしたが、剣術に優れその腕を混乱した国のために役立てたいと思っていました。面倒見のよかった近藤勇の道場には、様々な若者が集まるように。それが土方歳三や沖田総司。そして下級武士の子だった斎藤一(さいとうはじめ)でした。
斎藤一
この若者たちに千載一遇のチャンスが巡ってきました。京都の状況をみかねた幕府が、身分を問わず腕の立つ者をつのり、京都に送り込むという異例の方針を打ち出したのです。その受け入れ先となったのが会津藩でした。
文久3年4月16日、松平容保は彼らの実力を見たいと自らの前での稽古を命じました。斎藤一はこのとき、20歳という若さながら近藤勇の道場の中でも一二を争う程と言われ最強の剣士の一人でした。稽古の後、松平容保は大いに喜び上機嫌で酒をふるまったと言われています。
会津藩お預かりとなった斎藤一たちが住んだのは壬生。田舎暮らしでしたが、手柄を上げる機会はすぐに訪れました。
文久3年8月18日、過激な行動を繰り返す公家や長州藩を天皇の命を受けた会津藩らが京都から追放。このときの部隊の配置図によると、普通であれば格式の高い大名などが守る御所の警護に壬生浪士の名が記されています。その剣の腕の高さを見込まれ、正規の武士と並ぶ待遇を受けたのです。
さらに、斎藤一たちを喜ばせたのが名誉ある隊名をたまわったことでした。それが「新選組」です。その名は江戸中期の会津藩の軍制に由来していると言われています。
新選組の名を天下にとどろかしたのが池田屋事件です。反幕府活動を画策し、京都に潜伏していた長州藩士たちの居場所を新選組がつきとめ鎮圧に成功。新選組の働きは高く評価され、朝廷から感謝状が下り抜群の働きとたたえられました。
斎藤一 新選組隊長に就任!
慶応3年10月、将軍・徳川慶喜は幕府による支配はもはや限界であるとして政権を朝廷に返上しました。これにより徳川家は他の大名と同じ一大名となりました。
一方で、薩摩や長州の発言力が日増しに強まっていきました。京都守護職として長州藩士などを厳しく取り締まり恨みを買ってきた松平容保と会津藩は次第に孤立していきました。
一方、幕府の衰退により新選組の結束も揺らぎ始めました。隊の中でも意見の食い違いが目立つようになり、幹部の一人である伊藤甲子太郎が10人以上の隊士を連れて分離。伊藤たちは天皇の御所を守る御陵衛士となり、斎藤一も彼らと行動を共にしました。実は斎藤一はスパイでした。
伊藤たちのグループに加わって8ヶ月、斎藤一は驚くべき計画をつかみました。それは近藤勇を暗殺するという企みでした。慶応3年11月18日の夜、新選組は伊藤を待ち伏せし暗殺しました。そして、伊藤の遺体を引き取りに来た御陵衛士も新選組は討ちました。
慶応4年1月3日、京都近郊で鳥羽伏見の戦いが勃発。薩摩・長州を中心とする新政府軍と旧幕府軍が衝突しました。旧幕府軍の主力となって戦ったのが会津藩と新選組でした。しかし、旧幕府軍の足並みはそろわず、裏切りも相次ぎ惨敗。さらに、大坂城で指揮をとっていた徳川慶喜は海路で江戸へ逃亡。この戦いで会津藩と新選組は多くの死傷者を出し、長年守ってきた京都をみじめに追われることになりました。
斎藤一は、新選組の負傷者を取りまとめ江戸へ送り届けました。江戸では、徳川慶喜が新政府に抵抗しない意思を示し謹慎。これにならい、松平容保も恭順の意を示し会津に戻りました。しかし、新政府軍はあくまで武力で決着をつけようと大兵力で東へ向かいました。
新選組の近藤勇は、江戸近郊を転々としていましたが、やがて進撃してきた新政府軍に包囲されました。京都で恨みを買ってきた近藤勇は斬首され、その首は新政府軍によって罪人として晒されました。
近藤勇を失った新選組の隊士たちは、新政府軍から逃れ北へ。行き場のない隊士たちが向かったのは会津でした。
やがて、会津には旧幕府軍に与する者たちが次々に集結。体制の立て直しがはかられましたが、新選組の副長・土方歳三は戦いで負傷しており指揮がとれる状態ではありませんでした。このとき、隊長として新選組を率いることになったのが斉藤一です。
しかし、新政府軍との決戦は予想を超える厳しいものとなりました。劣勢になった会津を見放す者が続出する中、なお松平容保を支え忠義を貫いたのが斎藤一でした。
斎藤一 最後の戦い 貫いた誠とは
慶応4年閏4月25日、稲荷山で戦いの火ぶたが切られました。400人の軍勢を迎え討ったのが斎藤一率いる新選組130人。敵の半分以下の兵力でしたが会津を守ろうとする隊士たちの士気は高いものでした。大勝利をおさめ相手の出鼻をくじきました。
しかしその後、圧倒的な数の新政府軍が続々と攻め寄せてきました。数万に及ぶ兵力で三方向から会津を包囲。会津藩はただでさえ少ない兵力を各地に分散するしかありませんでした。
8月21日、手薄になっている守りをついて領内に攻め込もうと新政府軍が3000の大部隊で母成峠を急襲。斎藤一らは800の兵で立ち向かいましたが、兵力でも装備でも勝る新政府軍におされ敗北。松平容保は白虎隊を引き連れて自ら出陣しました。しかし、敵軍は予想を超える速さで会津領内に侵攻。松平容保は若松城に退かざるおえませんでした。
8月23日、ついに城下にも新政府軍がなだれ込みました。略奪、暴行などが起こり地獄のような有様になったと言われています。若松城には藩士だけでなく女性や老人、子供も集結。5000を超える人々が立てこもることになりました。
しかし、戦況の悪化で会津藩士以外の人々の結束は揺らぎ始めました。旧幕府軍の部隊では、会津を見限り脱出する者が続出。土方歳三は援軍を求めて会津を離れましたが、混乱のなか会津に戻ることができなくなりました。とどまっていた旧幕府軍の幹部たちの間でも、このまま会津にいるべきかの議論が起こりました。
しかし、劣勢になったからといって見捨てるのは誠の義ではない、苦境のただなかにいる容保と共に戦い続けることこそが斎藤一の誠でした。新政府軍は若松城に向けて次々と砲弾を撃ち込みました。しかし、容保は同盟諸藩からの援軍に望みをかけ戦いを続けていました。
新選組は如来堂近くで戦っていました。9月4日、斎藤一率いる13人の新選組は新政府軍300人に囲まれました。四方を敵に囲まれながらも、斎藤一は果敢に剣をふるい奮戦したと言います。
会津支援を表明していた東北の諸藩が次々と新政府軍に帰順。中には会津に兵を向けて来る藩もありました。武器、弾薬は底を尽き、かすかな望みであった援軍の可能性も失った会津藩。ついに、松平容保は降伏を決断しました。
明治元年9月22日、会津藩は降伏しました。容保に従い、場外で戦っていた藩士たちも次々に新政府軍に投降しました。その投稿者の中に一瀬伝八という名があります。上に小さく書かれているのは斎藤一の文字。何と、斎藤一はあの激戦を切り抜け生き残っていたのです。
動乱の京都で松平容保と出会ってから5年余り、自らの誠を貫いた斎藤一の幕末は終わりました。
その後の斎藤一
明治の世になり、斎藤一はどのような道を歩んだのでしょうか?
藤田五郎と名乗り警部補に任ぜられ、警察官になっていました。明治では敗れた側の出身者としてなかなか仕事に恵まれなかった会津藩士たちの多くは、当時新たに発足した軍隊や警察に入りました。斎藤一もまたその一人でした。
明治10年、警察官の斎藤一は九州地方へ出張。つまり西南戦争に参加。幕末を戦い抜いた斎藤一の剣の腕は衰えていませんでした。
斎藤一と松平容保の絆は明治でも続いていた
会津の戦いの終結後、松平容保は新政府に謹慎を命じられました。許された後も表舞台に出ることはなく、亡き藩士の慰霊に努めました。
斎藤一は、明治になると会津藩の名門、高木家の娘・時尾(ときお)と結婚。その時に仲人をつとめたのが松平容保でした。斎藤一は、3人の子どもとその孫に囲まれて晩年を過ごしました。東京・本郷でむかえた死の瞬間にも居住まいを正し、正座をしたままだったと伝わっています。
死後、葬ってほしいと言い残したのが会津でした。斎藤一はその遺言に従って、会津若松市内の寺に葬られました。
「歴史秘話ヒストリア」
新選組最強ヒーロー!斎藤一
~会津藩・松平容保との絆~
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