ブラジルで注目を集める一人の日本人の写真家がいます。大原治雄(おおはらはるお)です。戦前、日本からブラジルへ渡った移民でした。
未開のジャングルを切り開いてコーヒー農家として生きた大原治雄は、独学で写真を学びました。作品にはブラジルの大地と共に歩む喜びと覚悟が写し出されていました。いつの日か、夫婦で日本の地を踏むことを夢見ながら妻を看取った大原治雄。ブラジル移民として生きた大原治雄が写真に込めた思いとは…
大原治雄の故郷は高知県いの町。1909年、長男として生まれた大原治雄は幼い頃から家の農業を手伝いました。しかし、農地は狭く炭を焼いて現金収入を得ますが、生活は苦しいものでした。
そこへ来たのが、当時国が積極的に推進していた南米への移民の募集でした。元手がなくてもブラジルへ行けば大きな稼ぎが得られると宣伝されていました。
1927年、大原治雄が17歳の時、一家は移民を決断しました。大原治雄の一家が入植したのはロンドリーナ。ここでブラジルの特産品だったコーヒーの栽培を目指しました。一家は原生林を一から開拓しなければなりませんでした。
重労働にも関わらず、衣服や食料にもこと欠く苦しい生活を余儀なくされていました。周りには夜逃げや自殺を選ぶ移民も少なくありませんでした。
これでもうかり否、当然以下の報酬がないとは残念だ。いつでも緊張した生活をしている。
(大原治雄の日記より)
そんな生活に光明が射すのは1934年。24歳で結婚しました。相手は日本からの移民の娘・眞田コウ(さなだこう)さん。大切な人生の1ページを記録してくれた写真に大原治雄は感動しました。
写真に魅せられた大原治雄は4年の間、稼ぎを貯えカメラを購入しました。そしてブラジルの大地に生きる人々にレンズを向け始めました。大原治雄はカメラを通して、つかの間の喜びを発見していきました。
しかし、ブラジルの現実は決して甘くはありませんでした。32歳の時、軌道に乗り始めていたコーヒー農園が、かつてない大寒波に襲われ壊滅的な被害を受けたのです。
未曽有の寒波が襲来した。見渡す限りコーヒーは皆黒く枯れた。コーヒー栽培へ最後のとどめを刺された。
(大原治雄の日記より)
コーヒーの大打撃から10年後「朝の雲」を写しました。ブラジルの大地と空、そしてそこに生きる自らの伸びやかな姿を写しました。やがて大原治雄のレンズはすくすくと育つ9人の子どもたちに向けられました。
そして1955年、46歳の時に代表作「治雄の娘・マリアと甥・富田カズオ」が生まれました。大原治雄は娘マリアに8回もジャンプさせたと言います。
大原治雄は日本には一度も帰ることなく1999年、89年でこの世を去りました。生前、大原治雄は妻との帰郷を強く願っていました。妻もまた大原治雄と同じく日本を離れてブラジルに暮らしてきたからです。いつか一緒に日本を旅しようと約束していました。
ところが、突然妻が病に倒れました。妻は62歳で亡くなりました。先立たれた大原治雄は一度も日本へ帰ろうとしませんでした。
「日曜美術館」
大地が育てた写真
~ブラジル移民 大原治雄~
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