水俣の子の60年|NNNドキュメント

熊本県水俣市には海を埋め立ててできた公園が広がっています。この公園は有害な水銀ヘドロを封じ込めてできた場所です。

 

チッソ水俣工場は、かつて日本の最先端科学を担った企業でした。工場ではプラスチックの原料となるアセトアルデヒドを製造。その過程でできた大量のメチル水銀を30年以上に渡ってそのまま海に垂れ流していました。水銀が海を汚し、汚染された魚を食べた人々に次々と異変が起こりました。日本で初めて公害病と認定された水俣病です。その被害を真っ先に受けたのは子どもたちでした。水俣病が確認されて今年で60年です。

 

水俣市月浦から水俣病の長い歴史が始まりました。水俣病の第1号患者の女性が田中実子さん(62歳)です。今から60年前に熊本県に届けられた文書が残されています。

1956年5月1日、水俣で原因不明の小児奇病が発生

この時の患者が3歳になろうとしていた田中実子さんと小学校入学を翌年にひかえた姉・田中静子さんでした。

 

姉・静子さんは毎日泣き続け、発症から2年後に亡くなりました。妹・実子さんは不眠が続く日もあれば眠り続ける日もある不規則な暮らしで、24時間体制で介護を受けています。おしゃべりだった実子さんは発症以来一言もしゃべれなくなりました。メチル水銀によって脳がおかされ言葉を奪われたのです。家族に愛情を注がれて暮らす実子さんですが、その家族とすら会話できない60年を生きてきたのです。

 

チッソは水俣病の原因が自らの工場排水であると知りながらその事実を隠ぺい。有害なメチル水銀を海に垂れ流し続けました。最初の異変は魚を食べた猫、次いで人間でした。運動障害や手足の痙攣などが現れ死に至ることもありました。

 

田中実子さんの一番上の姉とその夫は30年前に両親が亡くなってから介護を引き継ぎました。発症前の妹はよくしゃべる活発な女の子だったと姉の綾子さんはふりかえります。当時、水俣病は原因が分からず、うつる病気だと誤解されいわれなき差別を受けました。

 

水俣市立明水園は水俣病患者のための施設です。鬼塚勇治さん(59歳)は、長い間この施設で暮らしています。鬼塚さんは手足をうまく動かせず、うまく話すことも出来ません。鬼塚さんは母親のお腹にいる時に胎盤を通してメチル水銀の被害を受けました。胎児性水俣病患者です。胎盤は毒物を通さないというそれまでの医学の定説を覆し、世界中に衝撃を与えました。その存在を明らかにしたのは原田正純(はらだまさずみ)医師です。

 

鬼塚さんには忘れられない思い出があります。熊本出身の歌手・石川さゆりのコンサートを胎児性水俣病患者の仲間と開催したことです。水俣中を動き回ってチケットを売り成功させました。鬼塚さんにとって人生で最も輝いた青春の1ページでした。

 

しかし、鬼塚さんは心の底にある怒りをおさえられなかったこともありました。それは当時の環境庁長官の北川石松が水俣を訪れた時のことです。「いろいろ歯がゆかった」と言っていました。20代の頃は自分の足で歩いていました。車椅子に頼る暮らしが長くなった今ももう一度歩くことへの希望は捨てていません。

 

鬼塚さんにはささやかな楽しみがあります。それは明水園を出て週に2回外泊をすること。泊まるのは福祉施設「ほっとはうす みんなの家」です。あだ名は鬼勇(おにゆう)胎児性患者の仲間は親しみを込めてそう呼びます。鬼塚さんはここで自分で筆を握り書道に挑戦しています。鬼塚さんが書くのは施設のスタッフや仲間に向けたメッセージ。ほっとはうすに泊まった夜の一番の楽しみは晩酌です。決まって飲むのは焼酎です。

 

熊本県は現在も魚の水銀値をはかっています。水揚げされた魚は市場に並び食卓へ。水俣の海は元の姿に戻りつつあります。しかし、多くの問題は残されたままです。体の不調を訴えてもいまだ水俣病と認められない人がいるのです。

 

倉本ユキ海さん(61歳)は一見健康そうに見えますが、突然こむら返りに襲われると言います。痛みは昼夜問わずやってきます。物心ついた頃から頭痛や手足のしびれを訴えてきた倉本さん。原因は一体何なのか苦しみながら生きてきました。

 

結婚して2人の子どもに恵まれましたが、入退院を繰り返していたため思うように子育てができませんでした。仕方なく小学生だった子どもを7年間児童養護施設に預けました。子どもの成長を見守ってあげられなかった思いが今も倉本さんを苦しめています。倉本さんは熊本県に申請をしましたが13年、いまだに結果は出されていません。そこで水俣病と認めてもらうため裁判の道を選びました。倉本さんに熊本県から通知が届きました。結果は保留というものでした。

 

水俣病と認められるには行政の審査に通らなければなりません。これまでに2万6770人が申請しましたが、認定されたのは2280人。申請者が急増した1970年代、国は条件を厳しくしました。以来、認定される人は激減。子どもたちは水俣病とは気づかず育ち、大人になった時には狭き門となっていたのです。

 

「NNNドキュメント」
生きる伝える ”水俣の子”の60年

この記事のコメント

  1. 土屋 祐子 より:

    とても良いドキュメンタリーだと思う。早い時間に放送して沢山の人に見てもらいたい。