ショパンとリスト ライバル物語|ららら♪クラシック

ピアノの貴公子ショパンリスト。内気で繊細なショパンと、社交的で自信家のリスト。互いの才能を認め合った二人は19世紀パリの音楽界を牽引しました。しかし、その友情は思わぬ形で引き裂かれることになりました。

フレデリック・ショパン

ライバル友情物語

1830年代初め、フランス・パリでクラシック音楽の歴史に刻まれた運命の出会いがありました。人気ピアニストだった20歳のリストと、ポーランドからやってきた21歳のショパンが出会ったのです。

フランツ・リスト

どんなに難しい曲も初見で弾いたというリスト。ショパンの練習曲を弾くことになりました。リストが何を弾いたのか定かではありませんが、この時演奏された可能性がある曲が当時ショパンが作っていた「別れの曲」です。

リストはいつものようにうまく弾くことができず衝撃を受けました。テクニックだけが試される当時の練習曲と違って高い芸術性が必要だったからです。この後、リストは一人で猛練習したのだとか。

内面へ向かう誌的な叙情性を最初から開花していたショパンの高い芸術性のようなものをリストは二十歳そこそこの時点では究めきっていない。ショパンがこんなに素晴らしい才能があって羨ましいという嫉妬心もあったかもしれません。

(玉川大学教授 野本由紀夫さん)

ショパンとの出会いをきっかけにリストは自分がどんな音楽を追求すべきか問い直しました。

そして、自慢のテクニックをいかした新たな表現を開拓。超絶技巧です。その一つが「ラ・カンパネラ」。後に改訂を重ねリストの代表曲になりました。

華やかなリストの演奏は貴族から一般市民までパリ中の人々を虜にしました。

自分はできないことがリストはできるんだなってと思ってたでしょうし、人がこういう曲を弾くと注目するんだなとリストから学んでいたと思うんですよね。

(ショパン研究科 小坂裕子さん)

お互いの才能を認め合ったショパンとリスト。友人に宛てた寄せ書きにはこんな言葉を…

僕は自分が何を書いているか分からずにペンを走らせているよ。というのも、横でリストが僕の練習曲を弾いているからなんだ。彼の演奏は素晴らしい!

(フレデリック・ショパン)

君はショパンの練習曲のすばらしさが分かるかい?

(フランツ・リスト)

僕の曲の素晴らしさなんてリストの曲が出版されるまでのことだよ。

(フレデリック・ショパン)

引き裂かれる友情

当時、パリで流行していたのは貴婦人が主催した社交の場「サロン」です。貴族を相手に演奏することで生計を立てていたピアニスト。時には貴婦人と愛人関係になることも。

いってみればどこの馬の骨かも分からない芸術家が貴族の女性に認められるとなると、芸術家としての格付けが上がるということにもなって、パリで生きていく上での役にも立ったということですね。

(玉川大学教授 野本由紀夫さん)

やがて、ショパンとリストも年上の貴婦人と関係を持つことに。ショパンの愛人はジョルジュ・サンド。「男装の麗人」と呼ばれた売れっ子小説家でした。

ジョルジュ・サンド

リストの愛人は大貴族のマリー・ダグー。文筆家になることを夢見ていました。

マリー・ダグー

仲の良かった二人ですが、ダグーがサンドの小説に陰口を言ったことで犬猿の仲に。その煽りを受けたのがショパンとリスト。一緒に演奏することさえできなくなっていきました。

言ってみれば上司には逆らえないと言いますか、二人の派閥の犠牲になっていくんですね。

(玉川大学教授 野本由紀夫さん)

ショパンとリストの関係が取り返しのつかないほど悪化したのは1841年4月26日のショパンの演奏会。数年前から患っていた重い病をおして開かれました。聞く者の心に染み入る演奏は大きな称賛を浴びました。

しかし、音楽雑誌に投稿されたリストの記事には痛烈な批判が…

ショパンは上流階級だけの狭い世界に閉じこもったままだ。彼の時代は過ぎ去った。

実は、この記事はリストの愛人マリー・ダグーが陰で執筆していたと言われています。ショパンとサンドは激怒。以来、他人の悪口を言わなかったショパンも公然とリストを批判するようになりました。

リストの曲なんて後世には残らない。新聞記事のように忘れ去られるだけだ。

(フレデリック・ショパン)

夢を語り合った楽しい日々は遠く過ぎ去ってしまいました。

予期せぬ別れ 青春の日々を胸に

交友が途絶えたショパンとリスト。30代半ばで愛人との関係を清算し、互いに新たな道を歩みだしていました。

リストは36歳でパリを離れ、ドイツのワイマールで宮廷楽長の職を得ました。超絶技巧で人気を集める日々に虚しさ感じ、作曲に専念しようとしたのです。

その矢先、ショパンの訃報が届きました。

ショパンの音楽を改めて見つめ直したリストは、その素晴らしさに改めて胸を打たれました。志半ばで亡くなった友の功績を伝えたいと、ショパンの素晴らしさを弟子たちに語り、演奏会でショパンの曲を積極的に取り上げました。

作曲の面でも、変化が訪れました。超絶技巧を得意としたリストが繊細で内面的な曲を作るようになったのです。その一つがリストの作品で最も人気のある「愛の夢」です。まるでショパンが作曲したかのような詩的な曲です。

ショパンの死から37年、リストは74歳でこの世を去りました。リストが晩年に残した言葉があります。

ショパンはまさに魔術的な天才でした。彼と肩を並べる者は誰もいません。芸術の空には、ただ一人彼だけが光輝いているのです。

(フランツ・リスト)

「ららら♪クラシック」
ショパンとリスト ライバル物語

この記事のコメント

  1. 三浦正悦 より:

    ショパンとリストということで、このページに来ました。
    ポーランドから1956年にショパンとリストを並べて描いた切手が発行されています。この切手の参考資料として、この頁の内容は、ありがたい情報です。
    私は、著名人の切手を紹介する会報に1956年の切手の解説記事を書きます。
    このページの内容を、URLなどを明記して、一部を転載させていただきます。
    よろしいでしょうか?

  2. 管理人 より:

    >三浦正悦 様
    コメントありがとうございます。
    転載していただいて大丈夫です。わざわざご連絡いただいてありがとうございました。

  3. 三浦正悦 より:

    ありがとうございます。

  4. 匿名 より:

    まとめ記事ありがとうございます。
    この番組を観ていなかったのでありがたいです。
    ただ、意地悪のつもりでコメントするわけではないのですが、内容に疑問を感じる箇所が複数あります。
    41年、ショパンのプレイエルホールについてリストが書いた記事、これが友情を引き裂くきっかけになったとありますが、この書評はそもそも他の人が書く予定だったのを、リストがゴリ押しの希望で書いたと、どの本にも書いてあります。そして、ショパンの演奏を賛美に賛美していると。そしてサロンに引きこもっているのは勿体ないという風に読み取れるはずなのですが・・やはりマリーさんの仕業なのか、真実は闇の中ですね笑
    そしてショパンの書簡集なども読み漁っているのですが、ショパンがリストの陰口をどこで言ったのかも謎が多く、脚色なのではと疑ってしまいます。
    すみません、テレビのまとめなのでそんな事言われても・・って感じでしょうが、
    あくまで一説なのではないかということをコメントさせていただきました。