ルノワールのダンス三部作「都会のダンス」「田舎のダンス」「ブージヴァルのダンス」|美の巨人たち

テレビ東京の「美の巨人たち」でルノワールの「ダンス三部作」について放送されました。

「私にとって絵とは愛らしい、そして楽しくて綺麗なもの。そう綺麗なもの!でなけりゃならないんだ」(ピエール・オーギュスト・ルノワール)

「都会のダンス」と「田舎のダンス」は縦180cm、横90cm、ほぼ等身大で描かれた油彩画です。「都会のダンス」の舞台はダンスホールです。栗色の髪が美しい女性は背中が大きく開いたドレスを身に着け、腕を腰にまわした男性のリードに身を任せています。モデルは後に画家となったシュザンヌ・ヴァラドンです。顔がほとんど見えない男性はルノワールの友人ポール・ロートがモデルになっています。一方、「田舎のダンス」の舞台は屋外。男性のモデルは同じくポール・ロートですが、女性のモデルはアトリエの近所に住んでいた娘アリーヌ・シャリゴです。屋内と屋外、洗練と素朴、すまし顔と満面の笑み、なぜルノワールは対照的な2枚のダンスを描いたのでしょうか?

19世紀末、フランス画壇に新たな潮流「印象派」が生まれました。彼らはアトリエを飛び出しうつろう光をキャンバスにとどめました。クロード・モネ、ポール・セザンヌ、エドガー・ドガなど現代では錚々たる顔ぶれと言われる中にピエール・オーギュスト・ルノワールもいました。1876年の第3回印象派展に出品された傑作が「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」です。ところが、印象派の最高傑作を描いたルノワールにこのときから深い迷いが生まれました。「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」から7年後に描かれたのが「都会のダンス」と「田舎のダンス」です。「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」とは人物の描き方が一変しています。なぜ画風が変わったのでしょうか?

「私の仕事に断絶のようなものが生じました。『印象主義』の限界まできてしまい絵具を塗ることも素描することも出来なくなりました。袋小路に迷い込んでしまったのです」(ピエール・オーギュスト・ルノワール)

 

ルノワール 再生の旅路 アルジェリア~イタリア

苦悩にさいなまれるルノワールが向かったのはアフリカのアルジェリアでした。パリとは違う突き刺さるような強烈な日差しは心に巣食った暗部を消し去りました。

「アルジェリアで私は白を発見したよ」(ピエール・オーギュスト・ルノワール)

続いてルノワールが向かったのはイタリアのフィレンツェでした。そこで出会ったのはラファエロの「小椅子の聖母」でした。このルネサンス芸術の傑作に大きな衝撃を受けました。

「出かけるときはただ冷やかしに見るつもりだったんだ。ところが実際目にしたのは考え得る最も自由で堅固な、そして単純な生き生きとした絵だった。腕といい脚といいまさしく現し身のようだ」(ピエール・オーギュスト・ルノワール)

「人間を惹きつけるものといえばただひとつしかない。それは人間だ」(ルノワールがよく引用したパスカルの言葉)

アフリカとイタリアの旅に行き、新たな境地を得たルノワールは制作を再開しました。そして「都会のダンス」と「田舎のダンス」が生まれました。人物はしっかりした輪郭で描かれています。まるで彫刻のような実在感を持っています。光も色も人間を際立たせるためにある、これこそがラファエロから学んだことです。様々な色彩を駆使して描かれた光沢は、アルジェリアの強い光から発見した白です。ルノワールは印象派の一歩先へと進んだのです。ではなぜ都会と田舎という2つのモチーフで描いたのでしょうか?答えはもう1枚の絵にありました。

 

ルノワール 人生の転機 もう一枚の「ダンス」とは?

画商の依頼を受けてルノワールが描いたのが「ブージヴァルのダンス」です。場所は郊外のダンスホール。麦わら帽子の男と赤い帽子の女が踊っています。足元に散らかったタバコの吸い殻が庶民の楽しみの場であることを物語っています。流行の最先端である薄紅色のドレスはブラウスとスカートのアンサンブルです。ルノワールは辛い仕事のあと、気晴らしに郊外のダンスホールで踊る当時の若い女性の姿を写しだしました。なぜ三枚もダンスの絵を描いたのでしょうか?

 

なぜルノワールは「3枚のダンス」を描いたのか?

三枚の中で一番最初に描いたのが「ブージヴァルのダンス」です。この絵に確かな手ごたえを感じたルノワールは、さらに「都会のダンス」と「田舎のダンス」を描きました。ルノワールはなぜ同じモチーフを3度繰り返し描いたのでしょうか?その理由は背景を見ると分かると言います。

「ブージヴァルのダンス」では中心で踊る2人の奥の木陰に談笑する人々がいます。手前の二人はルノワールが新たに挑んだ強い輪郭で描かれていますが、背景の人々は輪郭があいまいです。後に描かれた「田舎のダンス」では印象派のタッチは少なくなり、「都会のダンス」では消えています。ルノワールは印象主義をキャンバスから徐々に消していったのです。3枚を描きながら印象派への決別を宣言したのかもしれません。

 

ルノワール「ダンス3部作」 モデルとなった女性の謎!

「ダンス3部作」の男性のモデルは3枚共通してポール・ロートです。女性は「都会のダンス」はシュザンヌ・ヴァラドン、「田舎のダンス」はアリーヌ・シャリゴです。「ブージヴァルのダンス」のモデルは長らくシュザンヌ・ヴァラドンだと考えられてきましたが、近年新たな説が浮上してきたのです。顔はシュザンヌですが、体型はアリーヌのようです。つまり、ルノワールは新たな出発となったこの絵でシュザンヌとアリーヌという心惹かれた2人の姿を重ね理想の女性を生み出そうとしたのかもしれません。

シュザンヌ・ヴァラドンはサーカスの花形スターをつとめ、後に女流画家としても名をなした奔放な女性です。その美貌は多くの画家を虜にしました。「都会のダンス」はそんな彼女が最も美しく映えるダンスシーンとして描かれました。アリーヌ・シャリゴはルノワールが住む近所の洋裁店でお針子として働いていました。大らかな性格は悩み多きルノワールの心を和ませたと言います。「田舎のダンス」はそんな18歳年下の純朴な娘が最も輝くダンスシーンとして描かれました。

 

一人だけ微笑んでいるアリーヌ

「ダンス3部作」の中で唯一「田舎のダンス」の女性だけがこちらを見つめています。ルノワールにとってアリーヌ・シャリゴは心を安らかにしてくれる存在でした。ルノワールはドガにアリーヌについて「あの人は好きなだけ僕に考えさせてくれるんだよ」と言っています。1885年にルノワールが描いたのが「母性あるいは乳飲み子」です。この年、ルノワールとアリーヌの間に長男ピエールが誕生。そして1890年に二人は正式に結婚しました。

「私が絵画を愛するのはいかにも永遠という感じがするときさ。でもわざと作った永遠じゃだめだよ。すぐ隣の街の片隅で毎日見られるような永遠さ。子供に乳をやっている女はどれもこれもラファエロが描くところの聖母だよ!」(ピエール・オーギュスト・ルノワール)

 

ルノワールは晩年、リウマチで手足の自由を失いました。それでも絵筆を腕にくくりつけ絵を描き続けました。

「ようやく何か分かりかけてきたような気がする。私はまだ進歩している」(ピエール・オーギュスト・ルノワール最後の言葉)

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