インドで貧しい人々を救ったグリーンファーザー杉山龍丸|ありえへん世界

テレビ東京の「ありえへん世界」世界と日本の知られざる絆SPでインド共和国でガンジーのように慕われる全財産を投げ打ち貧しい人々を救ったグリーンファーザーについて放送されました。ガンジーは1947年にインドをイギリスから独立させたカリスマ指導者です。彼は非暴力をモットーに掲げ自らの命を削り独立を成しとけ「独立の父」と称えられ今なお人々に愛されています。そんなガンジーと同じように慕われる日本人がいると言います。

 

その日本人とは杉山龍丸(すぎやまたつまる)さん(享年68)です。杉山龍丸さんは大正8年、福岡県で3人兄弟の長男として生まれました。祖父の杉山茂丸さんは明治時代に政財界で活躍し、伊藤博文の懐刀と呼ばれた大物。父・杉山泰道さんはペンネーム・夢野久作で知られる幻想文学の第一人者とされる作家。さらに杉山家は福岡に4万6000坪にも及ぶ広大な農地「杉山農園」を所有。父・泰道さんはそこで様々な作物を育てていました。そんな名家に生まれた杉山龍丸さんは物心ついた頃には農園で父の畑仕事の手伝いをしていました。杉山龍丸さんは父から「いつかはこの農園をアジアの為に使え」とよく言い聞かされていました。作家として見聞を広げ「これからはアジアの時代だ」と信じていた父はアジアの意味さえ分からない幼い杉山龍丸さんに何度もそう言い聞かせていました。恵まれた家庭に育っていた杉山龍丸さんでしたが、16歳の時に祖父と父が脳溢血で相次いで急死。残されたのは母親と歳の離れた弟2人でした。16歳という若さで突如名家を背負うことになってしまったのです。18歳になった杉山龍丸さんは家族の生活費を得る為に給料の出る軍の士官学校に入学。卒業する年に太平洋戦争が勃発しました。杉山龍丸さんは飛行機の整備隊長として戦地へ赴任。戦争では銃弾が肺を貫通する重傷を負い、生死の狭間をさまようものの生き抜き終戦をむかえました。戦争から帰ってきた杉山龍丸さんは厚生省援護局で、問い合わせた家族に兵士達の生死を伝える仕事に就きました。訃報を届け続ける気の重い辛い日々に生きる気力をも失いかけていました。

 

そんなある日、杉山龍丸さんのもとに幼い1人の少女が父親の生死を尋ねてきました。少女の父親の名前を帳簿から探すと「フィリピン・ルソン島にて戦死」と書かれていました。涙をおさえきれなかった杉山龍丸さんですが少女は意外にも静かに彼の言葉を受け止めていました。少女の瞳に宿る力強い意志に杉山龍丸さんは幼い少女がこんな状況でも前を向いているのに俺はなんと情けないないのだろうかと思い「俺はどんな逆境が来ようが絶対に諦めない」と心に誓いました。少女との出会いで芽生えた不屈の精神が後の彼の人生を大きく左右することとなりました。

 

その後、杉山龍丸さんは光子さんと結婚。福岡に戻り2人の子宝に恵まれ幸せな生活を送っていました。36歳の時、士官学校時代の友人が16歳のインド人の青年の面倒を見てほしいと訪ねてきました。友人の突然で強引なお願いでしたが、父が遺した「農園をアジアのために使え」という言葉が脳裏に浮かびました。杉山龍丸さんはインド人の留学生を無償で受け入れることに。インド人の青年は厳しい畑仕事に根をあげることもなく技術を習得しようと人一倍働きました。当時のインドは慢性的な食糧不足で多くの人が命を落としていたからです。そんな様子を見た杉山龍丸さんは「インドの困っている人たちを助けたい」と思うように。そして42歳の時インドへ。飛行機の窓から初めて見るインドの大地は荒れ果てていました。この国で飢えている人々を救うには農作物が育つ環境から整えなければならないと荒れ果てた土地に緑を増やすことを最初の目標に掲げました。その足がかりに彼が選んだのはデリーとアムリッツァルを結ぶ国際道路。この沿線一帯はヒマラヤ山脈と平行して走っているため山から流れてきた地下水が豊富にあると考えたからです。しかし、実際に行ってみると見渡す限り荒れ果てた土地が広がっていました。

 

杉山龍丸さんはユーカリの木を植林することに。ユーカリは根が深く水を吸い上げる力が強いという特徴を持っています。ユーカリを植林することで地中に張った根が水を貯め土壌を潤します。そうなれば作物を育てることが出来るようになると考えたのです。杉山龍丸さんは周辺の村へ植林を手伝ってもらえるようお願いしに行きましたが、今日生きることで精一杯な村人には受け入れてもらえませんでした。しかし、彼は諦める事無く自ら鍬を握り植林するために動き始めました。そんなひたむきな姿が次第に村人の心を動かし村人たちが植林を手伝うようになっていきました。かつて不毛の大地と呼ばれていた国際道路の両脇は現在、緑のユーカリが生えています。その街路樹が並ぶ道のりは470kmにもなります。本数は約26万本。ユーカリの木は地下水を吸い上げ大地を潤し、そのおかげで周辺では稲作をはじめ麦や芋の栽培も可能となりました。国際道路沿いの緑化に成功した杉山龍丸さんはインドの人々に「緑の父」と称えられ尊敬の念を抱かれるようになっていきました。

 

そんなある日、杉山龍丸さんはインドの州政府に呼び出されました。シュワリックレンジを救って欲しいというのです。シュワリックレンジとはヒマラヤ山脈の裾野に広がる全長3000kmにも及ぶ地帯のこと。そこは斜面の土が乾き大規模な土砂崩れが長年起き続けている荒れ果てた丘。この不毛の地を緑に変え農作物が取れるようにしたいと州政府は考えていたのです。州政府の必死のお願いに杉山龍丸さんは引き受けることを決意。現場を歩いているとサダバールという植物を見つけました。サダバールは食用にはなりませんが、乾燥した土地でも2~3ヶ月で根を張る生命力の強い植物。乾燥した斜面の土砂崩れを止めるためサダバールを植えることにしました。植林は軌道に乗ったかと思われましたが、インドで大干ばつが発生してしまいました。雨期になっても雨が全く降らず作物は枯れ深刻な食糧不足に陥ったのです。国の緊急事態で州政府からの援助はストップ。植林を進める資金が足りない状態になってしまったのです。そこで杉山龍丸さんが向かったのは国連本部。何のツテもないなか援助を願い出たのです。しかし、当時インドでは身分の低い人々に戸籍がなかったため政府は餓死者の数を把握できず、餓死者はゼロと発表していました。そのため国連は援助をすることが出来なかったのです。そこで杉山龍丸さんは福岡に残していた4万6000坪の農園を全て売却し、シュワリックレンジの緑化を進めました。ところが1987年、杉山龍丸さんは脳溢血で亡くなりました。インドを緑にするために人生を捧げ、志なかばでこの世を去った杉山龍丸さん。しかし、杉山龍丸さんがいなくなってもインドの人達はその不屈の遺志を継ぎシュワリックレンジの植林を続けていきました。不毛の地と言われたシュワリックレンジは現在、一面緑の木々に覆われています。土砂の崩落はなくなり荒れ果てた土地が植林によって生まれ変わったのです。これこそグリーンファーザーである杉山龍丸さんが人生の全てをかけて見たかった光景でした。杉山龍丸さんとその遺志を継いだ人々によって潤った地域は農業も可能に。食糧に困ることがなくなり生活も豊かになりました。インド全土でも杉山龍丸さんの緑化技術は広まり、農作物の生産量は当時の約3倍に上昇しました。