沖ノ島は周囲4kmの孤島は島自体が宗像大社の御神体です。古来、神が宿るとされ一般人の上陸は禁じられてきました。宗像大社の神職が10日おきに交代で滞在し島を守っています。
宝物が見つかったのは沖津宮の周辺。1954年に始まった学術調査で4世紀から10世紀頃の遺物が大量に発掘されたのです。中でも目を奪われるのが金製の指輪です。国宝に指定されるそれは6世紀頃に朝鮮半島で作られ海を渡ってきたものです。
実は、沖ノ島は厩戸皇子(うまやどのみこ)後世、聖徳太子と呼ばれる男と深い関わりがあると言います。593年、女帝・推古天皇の摂政となった聖徳太子はわずか19歳にして政治を任されました。新しい国作りを進め日本の礎を築いた人物です。
直木賞作家の安部龍太郎さんは聖徳太子が始めた遣隋使がカギだと言います。遣隋使を影で支えたのが海人族と呼ばれた海の民です。荒波をこえて船を操縦する高度な技術を持っていたと言います。
海人族は聖徳太子の遣隋使に協力し、大陸へ渡る手助けをしていました。沖ノ島は経由地・対馬へ渡るルートの中間地だったため、遣隋使の重要な目印となっていました。海人族は航海のさいに沖ノ島に立ち寄り大陸から持ち帰った宝物を安全祈願のため島に捧げていました。
聖徳太子 現代に通じる外交戦略
遣隋使を通して大陸の進んだ文化を取り入れた聖徳太子ですが、中でも力を入れたのが仏教の導入でした。当時、最先端の渡来文化であった仏教を広め国を治めたのです。
さらに、遣隋使には重要な狙いがありました。聖徳太子が見据えていたのは複雑な国際情勢でした。当時、朝鮮半島は高句麗・新羅・百済が勢力を争い日本は新羅と戦争状態にありました。そこで、聖徳太子は遣隋使を派遣。超大国・隋と国交を結び、その支配下に入ろうとしました。隋を頂点に日本と朝鮮半島の3国が配下につけば秩序が生まれ戦争を回避できると考えたのです。1400年も前に東アジア全体の和平構想を描いていました。
しかし、遣隋使の派遣は思わぬ悲劇を招くことになりました。
聖徳太子 死の謎
聖徳太子は48歳の時、突然の死を迎えました。定説では病死とされますが、その死は謎に満ちています。
622年2月6日に聖徳太子の母が亡くなり、4月7日に聖徳太子の妃も死去。さらに、その翌日に聖徳太子も亡くなっているのです。3人が立て続けに死んでいるのです。さらに殯(もがり)の短さも不可解な点の一つです。もがりとは遺体をしばらく安置する儀式。高貴な人物では1年以上に及ぶと言いますが、聖徳太子は1か月もなかったのです。安部龍太郎さんは聖徳太子が暗殺された可能性があるのではないかと言います。
聖徳太子暗殺の容疑者とされるのが蘇我馬子です。蘇我氏は6世紀の中頃に台頭してきた豪族で、馬子は4人の天皇の補佐役をつとめ権力をふるいました。崇峻天皇とは政治的意見の相違から対立し、手下を使い崇峻天皇を暗殺しました。その後、蘇我馬子は蘇我氏の血を引く推古天皇を即位させ、その甥の聖徳太子を摂政につけました。
渡来人との交流が深く、いち早く仏教に注目していた馬子は聖徳太子を仏教普及の推進力にしたかったのです。仏教で深く結びついていた二人ですが、二人が決裂する事態が起こりました。遣隋使の失敗です。
原因は朝鮮半島の高句麗が隋に反旗を翻したことでした。高句麗が隋の領土を侵したことで戦争が勃発。激怒した隋は遠征を繰り返しますが敗北。国力が衰えた隋は滅亡してしまいました。遣隋使は途絶え、宮中では聖徳太子の失敗の責任を問う声が上がりました。
政治の実権を握っていた馬子は高まる批判をおさえるために、聖徳太子を殺害し事態の収拾をはかったと考えられるのです。
しかし、暗殺にはもう一つ驚くべき理由があったと言います。安部龍太郎さんは聖徳太子が隠れキリシタンだった可能性があると言います。聖徳太子にキリスト教を伝えたのは側近の秦河勝(はたのかわかつ)ではないかと言います。
秦は大陸からの渡来人で京都の太秦に拠点を置いていました。設立した大酒神社にはキリスト教の影が見え隠れします。大酒はかつては大辟と記され「ダビデ」と読むこともできます。古代イスラエルのダビデ王を意味すると言われるのです。
さらに太秦という地名も。当時、中国ではキリスト教を「大秦景教」と呼んでいました。太秦は「大秦」に由来するというのです。
時代を先取りし広い世界を見つめていた聖徳太子は秦河勝の影響を受け、キリスト教に関心を抱いたのかもしれません。仏教を国の柱とする馬子にとって、それは許しがたい裏切りでした。
「たけしの新・世界七不思議大百科 第5巻」
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