天城山心中事件の裏側 心中ではなかった!?|爆報!THEフライデー

事件が起きたのは昭和32年12月10日。伊豆半島にある天城山山中で、交際中の男女の遺体が発見されました。

亡くなっていた女性は愛新覚羅慧生(あいしんかくらえいせい)さん(当時19歳)ラストエンペラーの姪である日中のハーフです。横で亡くなっていた男性は、青森出身の純朴な青年・大久保武道(おおくぼたけみち・当時20歳)です。

死因は拳銃で頭部を撃ち抜いた即死と判断されました。この衝撃の事件をマスコミは大々的に報道。2人の恋の物語は後に映画化され、日本版「ロミオとジュリエット」として多くの国民が涙しました。

しかし事件から60年、愛新覚羅慧生さんの妹・嫮生(こせい)さんが重い口を開きました。現在77歳、嫮生さんはどうしても話せるうちに世に伝えたいことがあると、事件について初めてテレビ取材に応じました。嫮生さんはあの事件は心中ではなかったと思っていると言います。

2人の出会い

2人の出会いは事件が起きる1年前の昭和31年。学習院大学文学部でした。2人はクラスメイトでした。成績優秀でお嬢様育ちの慧生は、常にクラスの中心にいる人気者。ノートを貸して欲しいという名目で言い寄ってくる男子が多くいました。

そして、いつも学生服姿に雨も降っていないのに長靴を履いていた大久保武道と出会いました。大久保武道は青森県八戸市で育ち、大学進学を機に上京。性格はいたって真面目でしたが、裕福で洗練された学生が多い学習院大学では浮いた存在でした。

慧生は国文学サークルで一緒だったこともあり、大久保武道に積極的に話しかけるようになっていました。しかし、二人の恋は決して許されぬ恋でした。

慧生の宿命は日中の架け橋になること。当時、終戦から10年以上経過していましたが、日中の国交は断絶。さらに、父・溥傑は第二次世界大戦で日本に加担した戦犯として中国で収容されていました。そのため、慧生は危険が及ばないよう5歳の時から母の実家・嵯峨公爵邸で育てられました。慧生は国交が回復すれば中国に帰らなければいけないプリンセスでした。

しかし、その一方で大久保との愛を育んでいた慧生。愛が伝わる詩を大久保へ残しています。

幼いキューピットが 小さい矢で やわらかな胸を 二つ射抜いた 胸から胸へ傷口を通して 真実が生まれ信頼が生まれた

(遺簡集「われ御身を愛す」より)

許されぬ恋

慧生が高熱を出し寝込んでいた時のこと、いてもたってもいられなくなった大久保は慧生の家へ。しかし、慧生の家族は冴えない風貌の大久保を門前払い。二人の交際は禁止されました。大久保もまた叶わぬ恋を大きく実感。一方的に別れを決意する手紙を慧生におくりました。

しかし、慧生は大久保への想いを新たにして家族には内緒で交際を続けました。慧生は少しでも大久保の見た目を良くしようと、熱心にスーツやネクタイを選び、田舎者だった大久保を改造しました。

昭和32年4月、中国に収容され生き別れた父・溥傑が釈放されるという嬉しい知らせが届きました。しかし、それは大久保との別れを意味していました。

天城山心中事件

昭和32年12月1日、大久保はバレないように偽名を使い慧生を呼び出しました。12月4日、二人は伊東で一泊した後、修善寺駅へと向かいそこからタクシーに乗車。天城山トンネルへ向かいました。

到着した時の時刻はすでに午後5時。不審に思った運転手は地元の警察に通報。そして愛新覚羅家からも捜索願いがあり、12月5日から大捜索が開始されました。

そして12月10日、二人の遺体が発見されました。日中のプリンセスと田舎の青年、二人の死は結ばれぬ恋の末の心中と今日まで報じられてきました。

心中ではない?真相は…

しかし、慧生の妹・嫮生さんはその報道を真っ向から否定しています。

嫮生さんによると失踪当時、慧生さんの机の上には来年の抱負を書き綴った年賀状オーバーコートを注文しており、出来上がるのを楽しみにしていたと言います。

12月1日、大久保は慧生に拳銃を見せていました。大久保は父親が陸軍で使用していた拳銃を持ち出して心中を迫ったのです。実際に当時、タクシー運転手は慧生が「ここまで来れば気が済んだでしょう。遅いからもう帰りましょう」と言っていたと証言しています。

そして、慧生の学習院中等科からの同級生である木下明子さん(80歳)は12月4日、慧生から電話がかかってきたと言います。このとき、慧生はまだ都内の田園調布にいました。その声は決して死を決意した人間の重い口調ではなかったと言います。

木下さんは、慧生が大久保と共に天城山までついて行ったのは、大久保の自殺を止めるためだったのではないかと考えています。つまり、天城山心中事件は結ばれない愛の末の心中ではなく、死にたくなかった慧生が巻き込まれた事件だと言うのです。

そして、2人は同じ場所で亡くなっていたわけではないそうです。記事には「腕枕をされて」「寄り添って」などと書かれていましたが事実は全く違うと言います。

第一発見者の平川定司さん(81歳)によると、発見時は慧生は木に寄り掛かったように座り、大久保は1メートル離れた場所で倒れていたと言います。警察関係者やマスコミなどが、2人の死を美談にするために動かしたのではないかと推測されます。

実は、名家だった慧生の家は当時は裕福ではなく貧困だったそうです。当時、祖父はリュックサックに古本を詰めて売りに行き、祖母は自宅にサツマイモを植え自給自足の生活をしていたと言います。

身を寄せていた母の実家・嵯峨家は、日本国憲法の施行による公爵の地位をなくし没落。ラストエンペラーだった愛新覚羅家も父が収容所に送られた時点で地位と富を失っていました。

つまり、慧生はお金持ちの令嬢でもプリンセスでもなく当時はただの一般人に近く、二人に立場の違いなどほとんどなかったのです。事実、妹の嫮生さんの結婚相手は一般の日本人男性です。

もし二人がその事実に気づくようなことがあれば、天城山心中事件は起きなかったかもしれません。

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爆報!歴史的事件の裏側

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