1987年4月27日、北斗晶(ほくとあきら)さんが試合中に首を骨折しました。当時、北斗晶さんはデビュー2年目の新人にもかかわらず先輩レスラーをごぼう抜きにしたチャンピオンでした。
しかし、逆さまに持ち上げられた北斗晶さんは禁断の大技で首の骨をへし折られてしまったのです。頸椎骨折で全治1年。生死の境をさまよっただけでなく北斗晶さんはレスラーとして致命傷をおい所属団体から引退させられる苦渋を味わいました。
北斗晶さんの首を折ってしまった女子レスラー小倉由美(おぐらゆみ)さんは大バッシングの末、表舞台から姿を消しました。
小倉由美さんは1983年に全日本女子プロレスに入団。同期のブル中村さんと共に厳しい練習を乗り越えた若きエースでした。当時の女子プロは大人気だったビューティ・ペアの後をつぐべくライオネス飛鳥さんや長与千種さんなど次世代のスター候補がしのぎを削っていました。
小倉由美さんもまた抜群の運動神経で勝ち星を重ねるだけでなく、愛らしいルックスでドラマにまで出演。未来のスター候補でした。
しかし、北斗晶さんの首が折れた試合で人生が一変。23歳で引退し、表舞台から姿を消しました。
2人の出会い
2人の出会いは1987年。着実にスター選手の階段をかけ上がっていた小倉由美さんに最大のライバルが現れたのです。実は、北斗晶さんと小倉由美さんは先輩、後輩とはいえ同い年。しかし、北斗晶さんはオーディションに集まった2000人以上の中から勝ち残ったプロレス界のエリートでした。その期待にこたえ北斗晶さんは2年で先輩を一気にごぼう抜き。見事チャンピオンにまでのぼりつめました。
小倉由美さんには過酷な現実が待っていました。会社は実力のある北斗晶さんを次期スターに選択し、小倉由美さんは北斗晶さんの引き立て役になったのです。
後輩の北斗晶さんがスポットライトと歓声を浴びる中、その前座をつとめた小倉由美さんの嫉妬は膨れ上がり、次第に追い詰められていきました。
禁断の技
1987年4月27日、大阪府立体育館でチャンピオンとなった北斗晶さんの初の防衛戦が行われました。対戦相手に選ばれたのは小倉由美さんでした。試合直前、小倉由美さんは記者にこう答えています。
小倉由美さんはこのときすでに禁断の技を繰り出すつもりでいたのです。
試合が始まると終始、北斗晶さんのペースで、小倉由美さんは防戦一方でした。そして開始から9分、セカンドロープで北斗晶さんを逆さに抱えた小倉由美さんが繰り出した技がマットに頭から叩きつけるパイルドライバーです。
実は、パイルドライバーは練習で一度も成功したことのない禁断の技でした。小倉由美さんを突き動かしたのは勝ちたい執念と後輩には負けられない女の嫉妬でした。
パイルドライバーにより、北斗晶さんは頸椎を骨折。生死をさまよう重症でした。北斗晶さんは8か月にわたり入院しただけでなく、所属団体から引退を強いられました。
引退
事件の後、小倉由美さんを襲ったのはプロレスファンからの嫌がらせでした。そして心無い野次。さらに、客席から石が投げつけられたと言います。小倉由美さんはプロレス恐怖症になってしまいました。技をかけようとすると無意識に体が動かなくなってしまったのです。そして1990年、23歳で現役を引退しました。
プロレスを引退した小倉由美さんは、己の素性を隠しフリーターとして第2の人生をさぐり始めました。しかし、居酒屋で働くも偶然訪れた女子プロファンから厳しい罵声を浴びることもありました。そのたびに逃れるように職業を変えました。
一方、北斗晶さんは奇跡的に怪我を克服。復帰を願うファン10万人もの署名運動のすえ現役復帰を果たしました。スター選手として活躍し、芸能界でも活躍。連日のようにテレビに出演するようになりました。
その後
その後、小倉由美さんは2004年に36歳で結婚。ご主人は老舗の天ぷら店「天富久」の2代目。小倉由美さんは女将として働いています。多忙な日々はあの悪夢を忘れさせてくれ、平穏な日常を取り戻していました。
しかし、2015年に北斗晶さんが乳がんを発症。1年以上の過酷な闘病生活が連日のように報じられました。このことが、あのトラウマを呼び覚まし小倉由美さんを襲い始めたと言います。
因縁の再会
スタジオで小倉由美さんと北斗晶さんが30年ぶりに再会しました。
実は、小倉由美さんは事故後の病院で北斗晶さんから手紙をもらっていました。そこには「怪我は受け身がとれなかった自分にも責任がある」という北斗晶さんからの謝罪と「絶対辞めないで下さい」と書かれていました。
しかし、小倉由美さんは逃げるように辞めてしまいました。その事実を懺悔するために小倉由美さんはスタジオに手紙を持ち込んでいたのです。辛い過去に勇気をもって立ち向かった小倉由美さんの魂は今も勇敢な女子レスラーでした。
「爆報!THEフライデー」
この記事のコメント