18世紀後半のイギリスは黒人奴隷を使って西インド諸島、現在の中米の開拓を行っていました。その食料対策としてタヒチ島に繁殖するパンノキを移植する計画を立てました。
この国家的プロジェクトに抜擢されたのは33歳の海軍仕官ウィリアム・ブライ。ブライを艦長とする軍艦バウンティ号はタヒチを目指してイギリスを出航しました。
季節風のためルートをかえ10ヶ月かかってようやくタヒチ島に到着。バウンティ号はパンノキの苗木を積んで出航しました。ブライ艦長は規律に厳しいエリート軍人で、パンノキの苗木のため船員たちは水を十分に与えられていませんでした。
反乱
やがて、船員たちの忍耐は限界に達し、バウンティ号の副艦長クリスチャンが反乱を指揮。クリスチャンはタヒチ島で出会ったマイミティに恋をし、イギリスには何の未練もありませんでした。
クリスチャンはブライ艦長たちを追放し、自分たちはタヒチ島へ帰還したのです。
クリスチャンたちはイギリス海軍の捜索から逃れるためマイミティをバウンティ号に乗せてタヒチを出航。同行したのは8人の反乱者たちとタヒチで見つけたパートナーの女性たち、船員としてタヒチの男性たちでした。
ピトケアン島に到着
タヒチを出てから半年後、ようやく希望の島ピトケアン島を見つけました。クリスチャンたちは証拠隠滅のためバウンティ号に火を放ち海の底へ沈めました。
クリスチャンたちはピトケアン島に理想の国を作ろうとしましたが、一緒に来たタヒチの男たちを奴隷扱いしていました。
反乱・仲間割れ
ピトケアン島に来てから3年後、タヒチの男たちが武器を盗み出し反乱を起こしました。そしてクリスチャン、アイザック・マーティン、ジョン・ウィリアムズなどバウンティ号のクルーたちは次々とタヒチの男たちによって殺されました。
結束して武装蜂起し島を制圧したタヒチの男たちは女性をめぐって仲間割れをおこし殺し合いに発展。さらに、バウンティ号のクルーたちの逆襲も始まり、島は殺戮の場と化しました。ほどなくしてタヒチの男は全員死亡。男性は4人になってしまいました。
ピトケアン島に来てから6年目、マッコイは木の根から酒をつくり、退屈な島の生活にささやかな楽しみができました。しかし、泥酔したマッコイは崖から転落死。島に来てから9年目、マシュー・クインタルは処刑されました。
しかしその翌年、クインタルを処刑したネッド・ヤングは病に倒れ病死しました。最後まで生き残ったのはジョン・アダムズ。今もピトケアン島にジョン・アダムズの墓が残っています。
ピトケアン島の創造者ジョン・アダムズ
タヒチの女性たちのお腹にはバウンティ号のクルーたちの子供がいました。
敬虔なクリスチャンだったジョン・アダムズは子供たちのために、聖書を使った教育をして読み書きや道徳を教えました。アダムズはピトケアン島の創造者として秩序を立て直していきました。
イギリス海軍が来島
ピトケアン島に来てから24年後の1814年、イギリス海軍船が来島し、この時初めてジョン・アダムズがバウンティ号の反乱メンバーの生き残りであることが判明しました。
しかし、アダムズが罪に問われることはありませんでした。聖書により島を平和に治めていたことから恩赦が与えられ64歳で死去するまでピトケアン島に住み続けました。
ピトケアン島には今でもバウンティ号のクルーたちの末裔が暮らしています。
「奇跡体験!アンビリバボー」
呪われた島ピトケアン島の真実
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