ピンクレディー未唯mieが愛する男に裏切られ3億円の負債|サタネプベストテン

1958年、静岡県に生まれた未唯mieこと根本美鶴代は父と母と弟の4人暮らしでした。厳格だった父親は砂利採取業の仕事をしており比較的裕福な家庭だったと言います。

父は欲しいものは何でも買ってくれましたが、未唯mieさんが本当に欲しかったのは父の目を気にせず使えるお金、お小遣いでした。父には絶対服従で口答えはダメ、言われたとおりしなければならず、未唯mieさんは苦しかったそうです。

そんな未唯mieさんの夢は歌手になることでした。歌手になれば家を出て自由になれると思っていたのです。

歌手デビュー

高校3年生の時に同級生だった増田恵子さんと出場したスター誕生で合格。プロの歌手になるという夢を叶えることで、息苦しい実家生活から未唯mieさんは解放されました。

上京と同時に事務所やレコード会社と契約。1976年に「ペッパー警部」でデビュー。60万枚を売り上げ第18回レコード大賞新人賞を受賞。さらに「S・O・S」は65万枚の大ヒットを記録。

当時の睡眠時間は1時間半、月給は5万円だったと言います。しかし、親の目を気にせず使えるお金を手にし未唯mieさんは嬉しかったそうです。それでも、少ない給料の中から毎月1万円を仕送りとして渡していました。

1977年の「渚のシンドバッド」で売り上げ100万枚を突破。さらに「ウォンテッド」では売り上げ120万枚を達成。そして「UFO」で売り上げ155万枚になりレコード大賞も受賞しました。

そんなデビュー2年目の月給は15万円でした。3年目の月給は30万円、4年目には月給150万円に。さらに5年目には月給350万円にまでなったそうです。この350万円がピンク・レディー時代のマックス金額だそうです。そしてピンク・レディーは4年7ヶ月で解散しました。

解散後、実家に帰った未唯mieさんは父がレコードを300枚以上も購入し友人に配り歩いたり、実家までかけつける熱烈なファンが訪れたときには自宅にあげ食事を振舞っていたことを知りました。

未唯mieさんは両親に恩返しがしたいと、ピンクレディーで稼いだお金全て(4000万円)をプレゼントしました。

ソロ活動

未唯mieさんのソロ活動がスタートしました。ところが、所属事務所がソロデビューから半年後に倒産。すぐに新事務所を立ち上げたものの、マネージャーはセミヌード写真集の出版やコールガール役での映画出演の仕事を持ってきました。それはどれも、未唯mieさんが行いたかったアーティスト活動とは程遠いものでした。

そんなある日、未唯mieさんは音楽制作に関わっていたサウンドプロデューサー北岡和哉(仮名)と知り合いました。彼は何でも話せる心の支えとなっていきました。そして未唯mieさんを一人のアーティストとして扱ってくれるのが嬉しかったと言います。

二人は付き合い始め、未唯mieさんは事務所を辞め北岡と新事務所を始めることにしました。銀行から融資を受けるために担保として家を購入する提案を北岡から受けました。そして、未唯mieさんは会社の担保用として4億円の家を新築2億円のローンを組むことになりました。年間約50本のディナーショーなど新会社は順調に軌道に乗っていきました。

ところが、未唯mieさんはアーティスト活動も行っていたため、会社の経営を確認しなくなっていました。北岡は信用を得るためと言いローン承諾のサインを求めてきました。もちろん保証人は社長である未唯mieさん。さらに、北岡の提案を受け入れリムジンを購入。そして、北岡は音楽出版社を立ち上げたいと言い出しました。しかし、北岡は未唯mieさんとの結婚には踏み出してはくれませんでした。

未唯mieさんは北岡が接待と偽りクラブに通い詰めていることを知り、帳簿を確認すると1度に150万円をこす交際費が月に何度も支払われ、謎の経費が次々と発見されました。この時初めて未唯mieさんは会社が赤字経営であることを知りました。未唯mieさんは北岡をクビにし、北岡との交際も終わりました。

税理士に確認してもらうと、未唯mieさんは3億円の負債があることが分かりました。設立当初購入した家のローン税金公共料金人件費の未払いまで発覚したのです。

それでも、未唯mieさんは2年間で経営危機を脱し会社を立て直しました。

「サタネプ☆ベストテン」

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