牧村三枝子(まきむらみえこ)さんは炭鉱の町、北海道・美唄市で5人兄弟の末っ子として誕生しました。父は炭鉱夫で、39歳の時にできた末っ子の牧村三枝子さんを溺愛していたと言います。
しかし、40代後半になると長年の炭鉱勤務による疲労から体が衰弱し、ほとんど働くことが出来なくなりました。収入は母の食堂での皿洗いだけに。家族7人での暮らしは極貧だったと言います。6畳一間に家族7人がすし詰め状態。
極貧生活を送るうち、牧村三枝子さんは「皆があたたかく寝れるお家が欲しい」と思うように。そして15歳の時、歌手になることを決意。上京し釣り具店で働きながら歌手への道を探りました。
歌手デビュー
19歳の時に「少女は大人になりました」で歌手デビュー。しかし、その後レコードを数枚出すものの全く売れませんでした。
一方、両親が暮らす美唄でも炭鉱が閉山。両親は完全に職を失ってしまいました。そんな両親を放っておけず、牧村三枝子さんはわずかな稼ぎから仕送りをし続けました。
27歳の時、偶然聞いた「みちづれ」をどうしても歌いたいと思い渡哲也さんの元を訪れ「みちづれ」を歌わせて欲しいと直談判しました。渡哲也さんは快諾し、自分のレコードを廃盤にしました。その結果、牧村三枝子さんの「みちづれ」は100万枚以上の大ヒット。紅白歌合戦にも出場しました。
32歳の時に幼い頃からの悲願だった家を購入。富士山のふもとの豪邸は両親・兄弟も同居。念願だった一家揃っての生活を手に入れたのです。しかし、幸せな生活は長くは続きませんでした。
父の死…アルコール依存症に
牧村三枝子さんが45歳の時に父が亡くなりました。父がいなくなって何のために頑張ればいいのか分からなくなってしまった牧村三枝子さんは、1日中酒を浴びるように飲み続け体重は35kgに。アルコール依存症になってしまったのです。
医師からは余命5年と言われてしまいました。牧村三枝子さんは重度の肝硬変になっていたのです。しかし、死の恐怖を感じるどころか「あと5年も生きなきゃいけないのか」と思ったそうです。
復活
そんなある日、1本のテープが届きました。それは演歌仲間からの応援メッセージでした。このテープは親友の小林幸子さんが牧村三枝子さんの為に作ったものでした。このテープで少しだけ前向きになれた牧村三枝子さんのもとに父の遺品が届きました。その中には牧村三枝子さんが発売したレコードが全て入っていました。しかも1曲につき何枚も。
父の溢れんばかりの深い愛情を知った牧村三枝子さんは「生きてお父さんのためにもう1回歌いたい」と思うように。それから一切の酒を断ち食生活を改善。堕落した生活を2年かけて一新しました。
すると病状は徐々に回復し肝硬変を克服。そして再び演歌歌手としてステージに立ちました。
「爆報!THEフライデー」
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