世界一のコンクールに待つ「ラスボス」
ポーランドのワルシャワで5年に1度開かれるのが「ショパン国際ピアノ・コンクール」です。ピアニスト憧れの夢の舞台です。ビデオ審査と4回の予選で演奏されるのは全てショパンの曲。いわば世界一のショパン弾きを決めるコンクールなのです。
激闘を勝ち抜き本戦に進めるのは10人。そこで彼らが挑むのが2つのピアノ協奏曲です。そのうち多くのファイナリストが選ぶのが第1番。まさにコンクールの最後に立ちはだかるラスボスなのです。
他のピアノ協奏曲であれば、ピアノはメロディーを奏でることもあれば伴奏にまわることも。ピアノとオーケストラは対等の関係です。
しかしショパンの場合、協奏曲の主役はピアノ。オーケストラはいわばピアノの引き立て役です。この曲はショパンが書いた「ピアニストのピアニストによるピアニストのための協奏曲」なのです。
ピアノ協奏曲が描く「青春の痛み」
ポーランドのワルシャワ郊外に生まれたフレデリック・ショパンは、子供時代から活躍しワルシャワの音楽院でも才能を発揮しました。当時のポーランドは3つの国が支配し、ワルシャワはロシアが統治。いたるところで反乱が起きていました。
19歳のショパンは混乱を避け、音楽の都ウィーンでデビュー・コンサートを開催。結果は大成功。楽譜の出版を持ち掛けられるなど成功への足掛かりをつかみました。
自信をつけたショパンがとりかかったのが、ピアノ協奏曲の作曲です。当時、ピアニストが名声を得るためには、自ら作ったピアノ協奏曲でその腕前を披露するのが一番の早道だったのです。わずか1年の間に2曲のピアノ協奏曲をたてつづけに作曲しました。
実はこの頃、ショパンはコンスタンツィア・グワドコフスカに恋をしていました。同じ音楽院で学ぶソプラノ歌手でした。明るく快活で男性の友人も多いコンスタンツィア。一方で内気なショパンは彼女になかなか声をかけることができませんでした。
ある日、教会でコンスタンツィアを見かけたショパンは偶然目が合った瞬間、頭の中は真っ白に。当時の手紙には「うれしくて15分くらい記憶がなかった」と書いています。
祖国を離れ外国で暮らすことを決意したショパンは、告別の演奏会でコンスタンツィアを思いながら書いたピアノ協奏曲第1番を発表することにしました。別れのステージには美しく着飾ったコンスタンツィアの姿も。結局ショパンは最後まで恋を打ち明けることができませんでした。
バラの花を髪にさし白い衣装は彼女の表情に美しく調和していた。
(ショパンから友人への手紙)
祖国ポーランド、そしてコンスタンツィアへの思いを込めた曲はショパンの青春の痛みそのものなのかもしれません。
「ららら♪クラシック」
ショパンの「ピアノ協奏曲第1番」
この記事のコメント