自由の女神 ~隠された謎に迫る~|地球ドラマチック

アメリカのシンボル

様々な人種と文化が共存する街ニューヨークは、何世紀にも渡って数多くの移民を迎え入れてきました。新天地におりたった人々は、貧しくとも希望に満ちていました。そんな移民たちを1886年以降、港の入り口で迎え続けてきた像が自由の女神です。アメリカの精神的なシンボルとも言われています。

 

これ以上ないほどのアメリカ的な自由の女神像ですが、実はこの地に辿り着けなかったかもしれないという知られざる過去を秘めています。

 

始まりはエジプト!?

台座を含めると高さ93メートルの巨大な像は、どのような経緯を経てニューヨークにたつことになったのでしょうか?

 

自由の女神建造の物語は一人の人物から始まります。フランスの彫刻家フレデリック・オーギュスト・バルトルディです。

 

19世紀半ば、若き彫刻家としてまずまずの成功をおさめたバルトルディは、さらに大きな野心を抱いていました。エジプトへ旅行しスフィンクスやピラミッドに圧倒されたバルトルディは、自らの手で後世に残るモニュメントを作ろうと決意しました。

 

バルトルディが目を付けたのがエジプトに建設中のスエズ運河でした。スエズ運河の建設が進んでいた19世紀半ば、バルトルディは運河の入り口に灯台を建てようと思いつきました。それが台座にたちトーチを掲げる女性の像だったのです。

 

バルトルディはエジプトを治めていたイスマーイール・パシャに構想を持ちかけましたが、良い返事は得られませんでした。エジプトは破産状態だったからです。

 

自由をたたえるために

バルトルディは野心を果たせないままフランスへ帰国。しかし、フランスの高名な学者で政治家のエドゥアール・ド・ラブレーの支援を受けたことで、思いがけず道が開けました。

 

ラブレーはアメリカの自由と歴史を賛美し、アメリカ政府とフランス政府の同盟を推し進めようと働きかけた人物でした。

(歴史学者バリー・モレノさん)

 

19世紀半ばのフランスはナポレオン三世の専制政治に支配され、自由の国ではありませんでした。

 

「アメリカにはある自由がフランスにはない」ラブレーはそこに光を当てる政治的メッセージをフランス国民におくりたいと思っていました。そのためにはアメリカにモニュメントを送るといった大掛かりで人目を引く活動が必要でした。アメリカの自由をたたえ、フランスの指導者たちにあてつけるためです。

 

バルトルディはこのチャンスを逃しませんでした。女神像の建造に必要な資金を集めるためラブレーを責任者とする委員会が作られました。

 

大西洋を横断しニューヨークを視察したバルトルディは、女神像を据える場所としてリバティー島を選びました。バルトルディはアメリカの有力者にあてた紹介状のみを携え、壮大な計画の売り込みにかかりました。

 

とくかく話が突飛すぎました。彼の言い分はこうです。「これから世界一巨大な像を作り、私の決めた場所に建てます。台座の費用はそちらが出して下さい。」

(歴史学者エドワード・ベレンソン)

 

バルトルディは人々を説得させるために、エジプトで考えた最初のアイディアを復活させました。女神像を灯台にする計画です。アメリカ政府は、灯台ならリバティー島にたてても良いと承諾しました。

 

資金が足りない!

パリではラブレーが資金集めに奔走していましたが、なかなかうまくいきませんでした。

 

ほとんど知られていませんが、自由の女神像はアメリカ政府ともフランス政府とも関係ありませんでした。むしろフランス政府は自由という考え方を警戒していました。

(歴史学者エドワード・ベレンソン)

 

ラブレーは広く一般市民から寄付を募ろうと考えました。寄付金は少しずつ集まり始めましたが、構想から10年経ってもバルトルディが制作できたのは巨象ではなくトーチのみでした。2人はトーチを使って資金を集める方法を思いつきました。

 

アメリカ合衆国独立100周年が間近に迫っていました。愛国心を煽るには絶好の機会です。そこで2人は何十万ものアメリカの人々に作品を披露する場所を見つけました。フィラデルフィア万国博覧会です。

 

万博会場に設置されたトーチはたちまち人々の注目を集めました。何千人もが列をなし、一目トーチを見ようと喜んで50セントの見学料を払いました。現在、トーチに入れるのは「炎の番人」と呼ばれる管理担当者だけです。

 

巨大像 パリで完成

ラブレーとバルトルディは、トーチのおかげで女神像を完成させるための資金を集めることに成功しました。

 

1884年、ついに全てのパーツが完成。パリのバルトルディの工房で一つ一つ繋ぎ合わされていきました。

 

一難去ってまた一難

ついに巨大なモニュメントが完成し、アメリカにおくられる準備が整いました。ところが、アメリカ側が用意するはずの女神像の台座が出来ていませんでした。数年かけても台座を完成させるだけの資金を集められませんでした。

 

アメリカの資金調達委員会が集めた金額では10万ドル足りませんでした。委員会はニューヨーク州に寄付を求めましたが、州政府は拒否。すると、ニューヨーク市と張り合う他の都市が資金提供を申し出たのです。

 

フィラデルフィアやボストンには虎視眈々と自由の女神を狙っている人たちがいました。ニューヨークが台座を建てられないのならこちらに建てよう。そもそもアメリカ建国の地はこちらなのだからというわけです。

(歴史学者エドワード・ベレンソン)

 

土壇場になって、ニューヨーク在住のジョゼフ・ピュリツァーが資金提供に名乗りを上げました。

 

当時、ピュリツァーは小さな新聞社を所有していたにすぎませんでした。ピュリツァーはニューヨークに女神像をもたらそうと、自らの新聞「ザ・ワールド」を足場にして資金調達キャンペーンに乗り出しました。

 

毎日、新聞に寄付金の集計額や読者の手紙が掲載されました。「私はいっかいの労働者ですが自由を信じています。25セント寄付します。」と言ったね。その結果、発行部数は爆発的に伸びました。

(歴史学者エドワード・ベレンソン)

 

ピュリツァーは台座を完成させるための資金10万2000ドルをわずか数か月で集めることに成功しました。バルトルディはピュリツァーの努力と資金集めの速さに感激し、二人は生涯の友となりました。

 

台座の秘密

台座の建築は、アメリカの建築家リチャード・モリス・ハントに託されました。ハントはわずか1年余りで高さ47メートルもある巨大な台座を完成させました。表面は花崗岩で仕上げられていますが、中にはコンクリートが詰まっています。それは当時アメリカで最も大きなコンクリートの塊でした。

 

さらに衝撃的なのは、台座は女神像本体より90センチも高いことです。1886年10月28日、ついに自由の女神像をお披露目する時がやってきました。

 

 

ついにお披露目

それはもう大変なお祭り騒ぎで、ニューヨーク中でパレードが行われました。当時の大統領だったクリーブランドが除幕式を執り行いました。

(歴史学者エドワード・ベレンソン)

 

マンハッタンでお馴染みの紙吹雪が舞うパレードは、この日の祝典がきっかけで生まれました。

 

ブロードウェイをいくマーチングバンドに興奮した下働きの少年たちが、通信機用のテープを持ち出して通りに投げ込んだんです。紙テープはパレードの上に降り注ぎました。

(歴史学者バリー・モレノ)

 

除幕式を見ようと大勢の見物人が押し掛けました。自由の女神にかけられていたのは巨大なフランス国旗でした。それが取り払われた時、群衆から大歓声が沸き上がりました。

 

当時、自由の女神像はニューヨークで最も高い建造物でした。完成までにかかった費用は約200万ドル(現在の5億ドル)です。

 

秘密結社とのつながり

バルトルディ自身は、この女神像を「世界を照らす自由」と呼んでいました。その呼び名が何を意味するのか訝る者もいました。実はバルトルディはフリーメイソンと繋がっていたのです。

 

フリーメイソンは、もともと石工職人の集まりから生まれたとされる団体です。何世紀もの間に、政治と密接なかかわりを持つようになっていきました。

(歴史学者エドワード・ベレンソン)

 

自由の女神は完成当初、様々な疑惑がささやかれました。

 

自由の女神はアメリカを支配しようとしている秘密結社のシンボルだと恐れる人々がいました。確かに上院議員や州知事、大統領まで権力者の多くがフリーメイソンに属していました。

(歴史学者バリー・モレノ)

 

当時、最も声高に批判していたのは、フリーメイソンと激しく対立していたカトリック教会でした。フリーメイソンとカトリック教会は死後の世界に対する考えが違います。カトリック教会の聖職者の中には自由の女神を異端者のシンボルとみなして嫌った者もいました。

 

台座を設計したリチャード・モリス・ハントもフリーメイソンのメンバーでした。自由の女神とフリーメイソンとの結びつきはこれにとどまりません。像を設計したバルトルディを支援していたラブレーもフリーメイソンのメンバーでした。バルトルディはフリーメイソンのシンボルを女神像に刻み込んでいます。その一つが王冠です。

 

自由の女神の王冠はフリーメイソンのシンボルと関わりがあるという見方は昔から根強くあります。すなわち、太陽です。王冠が太陽を模しているというのはおそらく間違いないでしょう。バルトルディにとっても太陽はなじみ深いシンボルだったはずです。

(歴史学者エドワード・ベレンソン)

 

王冠というのは力、権威の象徴です。つまり、自由の女神が権威を持つ存在であるということを強調しているんです。

(歴史学者バリー・モレノ)

 

鎖に込められた意味

完成から130年を経た今も、自由の女神像は多くの秘密を抱えたままです。その最大の秘密は彫刻家でフリーメイソンのメンバーだったバルトルディが、女神像のデザインに盛り込んだあるシンボルです。それは観光客の目にはつかない場所に隠されています。

 

足元の鎖です。上空から見ない限りは分かりません。

(歴史学者バリー・モレノ)

 

自由のシンボルがなぜ鎖につながれているのでしょうか?

 

フリーメイソンでは、鎖は自由を縛るものの象徴とされます。もちろんフリーメイソンとの結びつきを否定する見方もあります。

 

自由の女神は世界に広がる自由を象徴しています。フリーメイソンもまた自由を広げることを信条としていて、女神像は自分たちのシンボルにふさわしいと考えていました。だからといって自由の女神像をフリーメイソンの像などと言いかえることはできません。

(歴史学者バリー・モレノ)

 

フリーメイソンと関係ないとしたら何を意味するのでしょうか?アメリカ史の極めて重要な出来事との関連を指摘する人もいます。

 

自由の女神像は、元の案では千切れた鎖を手に持っていました。奴隷解放の象徴です。

(歴史学者エドワード・ベレンソン)

 

完成までの長い年月の間にバルトルディは女神像のデザインを幾度か変更しました。なぜ鎖は手から足元へと移されたのでしょうか?

 

当時、奴隷解放への世間の関心は薄れつつありました。バルトルディは新たに人々の興味を引くため、デザインに趣向をこらす必要があったのです。

(作家エリザベス・ミッチェル)

 

鎖にはフリーメイソンや奴隷解放以外の意味が込められていると考える人もいます。イギリスからの独立です。

 

アメリカはイギリスの植民地支配から独立を勝ち取りました。つまり、圧政の鎖を断ち切ったのです。

(歴史学者バリー・モレノ)

 

銘板には何が?

女神が手に持っている銘板に注目する専門家もいます。銘板に何が刻まれているかは、アメリカの人たちにもほとんど知られていません。

 

銘板に刻まれている文字は「1776年7月4日」とアメリカ独立宣言の日付だけが刻まれています。

 

移民を迎え入れる存在に

やがて自由の女神は作者バルトルディの意図を離れ、全く異なる意味を持つようになりました。

 

よく自由の女神は移民たちをアメリカへ迎え入れるために建てられたという話を耳にしますが、実際にはそうではありません。

(歴史学者バリー・モレノ)

 

移民を迎え入れるために作られたという説はどこから出てきたのでしょうか?

 

詩人エマ・ラザラスが1883年に発表した「新たなる巨象」という詩に有名な一説があります。

疲れ 貧しく 肩を寄せ合う民衆を
自由の空気を吸わんと欲するその民衆を
我にゆだねよ

これぞ自由の女神の理念にふさわしいと人々は言い始めました。

 

当時、膨大な数の移民が続々とアメリカにやってきました。彼らは船で到着したので、港の入り口にたつ自由の女神の力強いイメージは一層際立ちました。こうして、自由の女神は移民を迎え入れる存在となり、新たな意味が加わったのです。

(歴史学者バリー・モレノ)

 

現在、エマ・ラザラスの詩はブロンズのプレートに刻まれ台座に飾られています。今ではプレートがそこにあるのは当然のことと思われていますが、当初の計画には含まれていませんでした。女神像完成の20年後に取り付けられたのです。

 

自由の女神は、生みの親バルトルディが想像すらしなかった形で自由のシンボルとなっていきました。

 

戦争の影

1916年、ヨーロッパで続く第一次世界大戦はアメリカにとっては遠い話でした。自由の女神には観光客が大挙して押し寄せ、377段の階段を上がり王冠までのぼっていきました。この時期は梯子を使ってトーチまで上ることもできました。しかし、間もなくそれは禁止されました。

 

当時、ドイツはアメリカが敵国に弾薬を輸出していることを知っていました。アメリカはまだ参戦していませんでしたが、ドイツの工作員はアメリカの兵器が敵国に渡るのを阻止しようと動いていました。

 

自由の女神に隣接するブラック・トム島には弾薬の集積場がありました。桟橋に並ぶ小型輸送船や貨車には90万キロもの弾薬がつめこまれていました。行き先はヨーロッパの連合国です。

 

ドイツの工作員たちは早朝に桟橋に忍び込みました。そして、集積所の弾薬を爆破したのです。大きな爆発が続けざまにおき、しまいには火災を引き起こしました。アメリカを狙った外国からの最初のテロ攻撃です。

(歴史学者バリー・モレノ)

 

爆発の規模はマグニチュード5.5の地震に匹敵し、100キロ以上離れたフィラデルフィアでも揺れが感知されました。自由の女神は弾丸や砲弾の破片が飛び交う中にその身をさらし続けたのです。

 

この事件でトーチを掲げた右腕は閉鎖され、観光客は立ち入り禁止となりました。自由の女神は爆発の影響で損傷を受けましたが、奇跡的にたち続けました。それ以降トーチは立入禁止となり現在に至っています。

 

灯台の役割は?

自由の女神像はアメリカ初の電気による灯台となりました。しかし、問題が起こりました。ライトをつけてみたところ、光があまりにかすかで見えなったのです。バルトルディはアメリカ側と協議。結果的には、アメリカ側でトーチにいくつもの窓を造り光が広がるように工夫しました。

 

しかし、光が強すぎるとトーチが溶けてしまうという問題が起こりました。バルトルディは設計者としての面目を保つため、女神像全体を金で覆うことを提案しました。女神の色を輝かせれば港全体がもっと明るくなると主張したのです。

 

1986年、アメリカとフランスの民間チームが8700万ドルをかけて女神像の修復を行いました。最大の変更点はトーチでした。

 

トーチが金色になってほしいという意見は以前からあり、修復のさい今のように金メッキのトーチに取り替えられました。

(歴史学者バリー・モレノ)

 

なぜトーチ以外は緑色なのでしょうか?自由の女神は銅でできています。実はフランスから初めて到着したとき、緑色ではなく赤褐色でした。銅は時が経つにつれ変色します。雨風に晒された女神像は茶色から青みがかった緑へと変わり、最終的に現在のような色に落ち着きました。

 

女神像の内部は?

現在、自由の女神像の内部はメディアによる撮影が禁止されていますが、一般の観光客には撮影が許されています。らせん階段の幅は50cmもありません。夏には気温は外よりもずっと高くなります。王冠まで達するには45メートル以上の高さをほぼ垂直にのぼっていかなくてはなりません。

 

骨組みの秘密

自由の女神像に使われている銅の総重量は約28トン。銅が用いられた理由は柔らかくて扱いやすいからです。大勢の職人の手で銅の塊が薄く打ちのばされました。しかし、銅は傷つきやすく重量があります。どうすれば倒れないようにはりあわせていくことが出来るか大きな課題でした。

 

バルトルディは、設計技師のギュスターヴ・エッフェルにアドバイスを求めました。エッフェルは女神像を支える骨組みを作ることを引き受けました。しかし、エッフェルは巨大な女神像を気に入ってはいませんでした。エッフェルからすれば美しい塔に醜いかぶせ物をされたというわけです。それでも女神像の骨組みを作った経験は無駄ではありませんでした。

 

間もなくエッフェルは、自身の代表作エッフェル塔にとりかかりました。自由の女神の骨組みからインスピレーションを得たエッフェルは、全体が鉄骨でできた塔を建てました。自由の女神の建造からわずか数年後により高い塔を建てて世間の注目さらったのです。

 

エッフェルが作った骨組みのおかげで、130年経った今も観光客たちは自由の女神にのぼることができます。

 

モデルは誰?

モデルになった人物がいるかどうかは完成当初からの謎です。一説には、バルトルディの母親シャルロットがモデルだと言われています。しかし、作家のエリザベス・ミッチェルは調査の末、兄をモデルにしたのではないかという結論に至りました。

 

バルトルディが若いころから憧れていた兄をモデルにしたのではないかと思います。バルトルディの兄の写真を見てみたら女神の顔とそっくりだったんです。眉の形や唇、特徴的なそして鼻。そして、物憂い表情もよく似ています。バルトルディは早くに亡くなった兄をしのび女神像としてよみがえらせたのかもしれません。

(作家エリザベス・ミッチェル)

 

 

ニューヨークから世界へ

真実がどうあれ自由の女神は自由と正義を表す普遍的な象徴となりました。その結果、女神は一つでは足りなくなりました。ヨーロッパからアジアまで、今や自由の女神は世界の女神として活躍の場を広げています。

 

完成以来、人々に希望と感動そして勇気を与え続けてきた自由の女神像。その姿はこれからも自由のシンボルとして世界中を魅了し続けていくことでしょう。

 

SECRETS OF AMERICA’S FAVORITE PLACES: STATUE OF LIBERTY
(アメリカ 2015年)



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