二・二六事件 奇跡の脱出劇|歴史秘話ヒストリア

NHK総合テレビの「歴史秘話ヒストリア」で二・二六事件 奇跡の脱出劇が放送されました。約50年前に出版された一冊の回顧録があります。「栄枯論ずるに足らず」、著者はかつて総理大臣の秘書官をつとめた福田耕です。福田耕は二・二六事件で総理が襲われた時、その現場に居合わせた男です。その時の体験をつづったのが「栄枯論ずるに足らず」家族や友人など身近な人にしか配られず内容が一般に知られることはほとんどありませんでしたが、そこに書かれていたのは二・二六事件の秘話でした。

 

勃発!二・二六事件

昭和11年2月25日、記録的大雪となった東京・永田町。総理大臣官邸は和やかなお祝いムードに包まれていました。その中心にいたのは内閣総理大臣・岡田啓介(おかだけいすけ)選挙を終えたばかりでした。総理の側に寄り添うのは秘書官の福田耕(ふくだたがやす)岡田啓介のことを父親のように慕っていました。そのほか、官邸にいたのはいつも岡田啓介を身近で支える人ばかり。数時間後に大事件に巻き込まれるなど誰にも想像できませんでした。

福田耕が官舎に戻ったのは日付もかわった26日の午前1時過ぎ。午前5時、凄まじい銃声が静寂を破りました。福田耕の目に飛び込んできたのは総理大臣官邸を取り囲み銃をかまえる大勢の兵士の姿でした。福田耕はすぐに官舎を飛び出そうとしましたが、玄関にいた兵に制止されました。この日、総理大臣官邸を襲ったのは陸軍の歩兵部隊300人。同じころ、別の部隊が警視庁などを襲撃。陸軍省をふくむ東京の中枢を占拠しました。

間もなく襲撃部隊が官邸になだれこんできました。異変に気付いた岡田啓介のもとへ義理の弟の松尾陸軍大佐が私服警官とかけつけました。岡田啓介たちが浴室に身を潜めた直後、襲撃部隊が寝室に乱入。襲撃部隊は血眼になって岡田啓介の捜索を始めました。

官邸に異変が起きた時は警視庁の特別警備隊がすぐに駆け付ける手はずとなっていました。しかし、このとき襲撃部隊の重機関銃がにらみをきかせていたため、特別警備隊は官邸に近づくことすら出来ませんでした。

岡田啓介たちが襲撃部隊に見つかるのは時間の問題でした。そこで私服警官が一か八かのかけにでました。襲撃部隊の一人に襲い掛かかりましたが、返り討ちにあってしまいました。ついに捜索の手は浴室に。

 

女中は見た!?

2月26日午前9時、総理大臣官邸は襲撃部隊に完全に制圧され静けさを取り戻していました。総理の寝室には遺体が安置されました。一方、福田耕は迫水と共に線香をあげたいと訴えて官邸の中に入りました。遺体は岡田啓介ではなく松尾大佐でした。実は絶体絶命と思われた時、兵たちの前に現れたのは松尾大佐でした。松尾大佐は岡田啓介の身代わりになったのです。兵たちは松尾大佐は岡田啓介と間違え襲撃が成功したと信じ込みました。テレビなどない時代、岡田総理を新聞の顔写真でしか見たことがなく、実際の顔はよく知らなかったのです。

福田耕と迫水は女中部屋に向かいました。そこには身をかたくして座り込んだまま動かない女中たちの姿がありました。「おケガはありません」と言い押し入れの前から動かない女中に、総理は押し入れの中にいるのではと思った福田耕と迫水、適当な理由を作り将校を女中部屋から遠ざけました。岡田啓介は松尾大佐が身代わりとなって殺された後、女中たちと出会い押し入れに隠れていたのです。その後、兵が巡回してくると女中たちが押し入れの前でおびえて動けないフリをして岡田啓介を守っていました。

応援を要請するため迫水は宮内省へ。一方、福田耕は再び官邸内を歩き襲撃部隊の警戒態勢を調べました。脱出するには廊下を通って玄関に出るしかありませんでしたが、見張りの兵が寝室前と玄関に立って常に警戒しているため通過するのは至難の業でした。また政府も軍も襲撃部隊との衝突を恐れ動こうとしませんでした。

2月26日午後7時、ラジオや新聞の号外が岡田総理の死を伝えました。すると親戚が早く弔問させるよう訴えてきました。2月27日午前9時、福田耕の前に憲兵曹長の小坂慶助が現れました。実は小坂は女中から話を聞き岡田総理が無事であることを知っていたのです。そしてこの2人の出会いこそが奇跡の脱出劇の幕開けとなったのです。

 

始動!総理救出作戦

作戦はまず弔問客を官邸内に入れ、岡田総理を女中部屋から廊下へ、焼香を終えた弔問客ということにして玄関を通過、弔問客が乗ってきた車に乗り込み官邸を脱出するというもの。弔問客の誘導から岡田総理の脱出準備まで各自の役割分担が決められました。そして2月27日午後1時、作戦が決行されました。作戦は無事成功し岡田総理は救出されました。「君、たばこを持っているか?」が岡田総理の初めての言葉だったと言います。

2月29日、二・二六事件は終結。周囲の人々の命がけの行動が総理暗殺という事態を防ぎました。

 

岡田が生涯大切にし続けたもの

命を救われた岡田啓介総理大臣は事件を防げなかったことに責任を感じ辞職。官邸を去りました。そして二・二六事件から16年後、84歳で亡くなりました。事件以来、岡田啓介が死ぬまで大切にそばに置いていたものが殉職者5名の位牌です。岡田啓介は自分を守って亡くなった松尾大佐や警官たち5人の位牌を特別に作り自宅で供養し続けました。

福田耕は晩年まで事件の詳細について多くを語ろうとはしませんでした。その理由をうかがわせるものが地元・福井に伝わっています。それは岡田首相が福田耕に贈った漢詩。岡田自身の座右の銘です。尊敬する岡田の言葉を福田耕は自宅にかけ自分の信条として死ぬまで大切に守りました。

「栄枯論ずるに足らず」
(人からあれこれ言われても言い訳や手柄を語る必要はない
自分の真心は天のみが知っている)


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