項羽と劉邦|古代中国 英雄伝説

NHK総合テレビの「古代中国 英雄伝説」で項羽と劉邦が放送されました。中国を統一した強大な秦王朝を建国した始皇帝は紀元前210年に世を去り、再び戦乱の時代が訪れました。天下を手中におさめようと2人の英雄が熾烈な戦いを繰り広げました。項羽と劉邦です。項羽はこのとき20代前半で、70を超える戦いに勝利した中国史上屈指の戦の天才でした。一方、劉邦は50歳も間近で項羽との戦いではいつも負け続けていました。ところが最後に勝利をつかんだのは劉邦でした。

 

項羽は楚の名門の武将の家に生まれました。楚はかつて秦に滅ぼされた国です。その復興を夢見た項羽は秦の打倒を目指して兵を挙げました。紀元前208年、中国大陸の各地では秦に対する反乱が相次いでいました。斉、魏、趙など、かつて秦に滅ぼされた国々が次々と立ち上がったのです。その中で最も強い勢いを示したのが楚の国の反乱軍でした。そして鉅鹿(きょろく)の戦いで項羽の名は中国全土にとどろくことになりました。敵は反乱鎮圧のために遠征していた秦の主力軍。項羽の軍は戦力では圧倒的に劣勢でした。この時、項羽は劣勢を挽回する優れた軍事の才能を発揮。項羽は全軍が川を渡り終えると乗ってきた船を全て沈め兵士たちの退路をたち、生きては帰らないという覚悟を求めたのです。数を頼りに何度も波状攻撃を仕掛ける秦軍を項羽の軍は打ち破りました。項羽がおさめた大勝利。その配下に加わろうと次々と兵士が集まり、項羽の軍は大軍に膨れ上がりました。

 

劉邦も劉邦と同じ楚の国の生まれでした。劉邦は金劉村の4人兄弟の末っ子として生まれました。長ずると下級役人をつとめ会合を取り仕切っていました。司馬遷の「史記」には村役人だった頃の劉邦について「酒と色を好み、そしていつも酔いつぶれていた」と書かれています。そんな劉邦に40代後半の頃、転機が訪れました。農民や流民たちが集まった反乱軍の頭領となり項羽の配下に加わったのです。劉邦の軍は戦闘経験が乏しく秦軍との正面衝突を避けながら都・咸陽を目指していました。そして南陽の戦いをきっかけに急速に力を伸ばしました。南陽を包囲していた劉邦の軍に、項羽が鉅鹿で勝利をおさめたとの知らせが届きました。母国の滅亡は近いと悟った秦の兵士たちは戦意を失いました。降伏をお願い出た兵士たちを劉邦は許し、自らの軍に迎え入れました。この噂は広がり秦の兵士が次々と投降。約3ヶ月で劉邦の軍は10万人の大人数に膨れ上がりました。

 

項羽と劉邦の前に秦軍には抵抗する力は残されていませんでした。まず劉邦が戦わずして咸陽に入りました。2か月後、項羽も入城しました。都に入ってからの2人の行動は大きく異なっていました。「史記」には「項羽は秦の王宮に火を放った。火は3ヶ月消えることなく燃え続けた」と記されています。かつて祖国の楚を滅ぼした秦への深い恨みから、項羽は秦の栄光を徹底的に破壊したのです。一方、劉邦は大将である項羽には告げないまま密かに独自の動きをみせていました。劉邦は王宮から秦の戸籍などを持ち出し項羽の目につかないよう独り占めし、支配の基盤となる人々の実態を自分だけが正確に掌握しようとしたのです。

 

秦は滅亡し、次に天下を握るのは誰か項羽と劉邦は激突しました。紀元前205年、彭城(ほうじょう)の戦いです。十数万の兵を失い敗走する劉邦。その狼狽ぶりを「史記」は「逃げる馬車から劉邦は実の子供を蹴り落した。蹴り落すこと3度に及んだ」と記しています。彭城の戦いから4か月後、劉邦はけい陽に逃げ込みました。起伏に富んだ地の利をいかし項羽の追撃をかわそうとしたのです。その後、戦いは膠着状態となり3年にわたる持久戦が続きました。小規模の戦いで勝ち続けはするものの劉邦に決定的な打撃を与えることはできない項羽。一方、劉邦は各地に配下の武将を派遣し計画を進めていました。

 

そして紀元前202年、垓下の戦いが始まりました。勝利を確信して戦場に立った項羽ですが、見たこともない劉邦の大軍勢が現れました。それまで歩兵中心だった劉邦の軍には精鋭の騎馬部隊が加わっていました。兵力も項羽の軍の約6倍。初めて苦戦を強いられました。項羽の軍は食料も尽き劉邦の大軍に幾重にも包囲されていました。夜になり項羽の耳に四方から歌声が聞こえてきました。祖国・楚の国の歌でした。項羽の反応を「史記」は「楚の国は実際には滅びていなかったものの項羽はすでに楚の国が落ちたと思い込んだ。そして劉邦の軍に楚の国の人が多いことに驚き失望し戦意を喪失した」と記しています。有名な四面楚歌のエピソードです。やがて項羽は長江のほとりで自ら命を絶ちました。

 

紀元前202年、劉邦は周囲におされる形で皇帝に即位、漢王朝を開きました。国作りにあたって劉邦は一族や功臣に土地を与えて諸侯とし一定の権力を許すことで王朝の安定をはかりました。漢王朝は400年に渡って続き、その支配体制はその後の中国王朝の基盤となりました。


カテゴリー: 学び

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