加賀前田家・3人の英雄たち|歴史秘話ヒストリア

初代 利家 つかめ!戦国ドリーム

戦国時代、天下統一を目指して快進撃を続ける織田信長のもとに一人の若武者がいました。槍の又左(やりのまたざ)と恐れられた前田又左衛門利家(まえだまだざえもんとしいえ)です。その甲冑は全面金箔押し、派手好みで豪快、いわゆるかぶき者でした。

 

もちろん戦でも大活躍。次々と敵を討ち取り若くして信長の親衛隊に抜擢された有能な侍でした。そんな利家には知られざる素顔がありました。戦の時にはそろばんを手に自ら兵糧や金銀の量などを計算。普段でもそろばんを使って効率的に米やお金を貯えたと言われています。

 

当時、中国から伝来したばかりのそろばんは最先端の計算機器。それを見事に使いこなすことは当時の武士には珍しい前田利家ならではの才能でした。しかし、計算のしすぎで行動が遅くなってしまうクセがありました。そんな時、背中を押したのは妻のまつです。

 

例えば、利家の領地に突然敵が攻め込んできた時のこと。利家はやっぱり計算。兵の数が足りないと計算し始めました。そこに現れたのはまつ。利家が日ごろ貯めこんだ金銀を片手に「この金銀を戦に連れて行き槍をつかせてはいかがですか?」とキツイ一言。今は計算より行動が大事、そうまつに叱られた利家は決死の覚悟で敵に攻めかかり見事打ち破ったと言われています。武勇とそろばん、そして妻の支えにより利家は順調に出世していきました。

 

ところが、本能寺の変が起こりました。信長の跡継ぎの座をめぐって羽柴秀吉と柴田勝家の対立が深まりました。ここで窮地に立ったのが利家です。利家は上司であり一緒に戦ってきた勝家につかざるおえません。しかし、秀吉は無二の親友でした。利家とまつの娘を秀吉夫婦の養女に出すなど、ずっと家族ぐるみで親しい間柄でした。

 

利家の苦悩をよそに、秀吉と勝家は賤ケ岳で激突。戦いは秀吉軍の圧勝。敗れた勝家を追う秀吉は、途中利家が立て籠もる城にせまりました。利家は義理堅い武将でした。一度敵となった以上、秀吉に顔向けできないと思いつめた利家を救ったのもまつでした。

 

まつは城を訪れた秀吉を夫に代わって出迎えました。そして、敵である秀吉に「ご戦勝おめでとうございます」と祝いの言葉をかけました。この瞬間、秀吉は以前と変わらない利家たちの心持ちを察し「利家殿のお力添えを頂きたい」と答えました。まつの機転で再び友との仲を取り戻せた利家。誰よりも速く馬を走らせ秀吉の勝利に貢献しました。

 

利家は秀吉から北陸3カ国にまたがる広大な地を任されました。金沢の城に入った利家が最初に行ったのが、検地でした。正確な検地こそ領国経営の基礎。広い領地を把握するのに利家のそろばん力が発揮されました。まず、田畑一つ一つを測量。それぞれ上・中・下に格付けし、獲れる作物の量を計算。村ごとに合計し、一番細かな単位・勺にいたるまで割り出して正確な年貢を定めました。こうした膨大な計算をこなすため利家は特別な部署を設けました。御算用場です。最盛期には150人もの武士がそろばんをはじき、年貢をはじめ前田家・加賀藩の経理一切をとりしきりました。

 

加賀藩はそろばん役人が統治している藩。そろばん王国といっていい。検地をして検地帳をつくって年貢をとるというこの3段階をするためには、算勘(計算)が非常に必要になる。そろばん技術がないと年貢はとれない。

(国際日本文化研究センター准教授 磯田道史さん)

 

生まれ持った武勇とそろばん、できた妻のおかげで利家は一代で83万石という大大名の座をつかんだのです。

 

1599年、利家にも死が迫っていました。しかし、利家には気がかりなことがありました。

秀頼様に謀反をおこす者がおるやもしれぬ。

前田利家の遺言より

徳川家康の存在でした。徳川との戦いというとてつもない難局。未来は2代目・前田利長(まえだとしなが)にたくされました。

 

2代 利長 ギリギリ外交術

利長が前田家を継いで半年程が経った頃、大坂に滞在し豊臣家を支えていた利長は家康は次にようにすすめられました。

 

日々、ご苦労なことでござる。ご休息とお国もとの様子見をかねて一度金沢へ戻られてはいかがかな。

「三壺聞書」より

 

これは、前田家の力をそぐための家康の罠でした。うながされるまま利長が帰国した途端、大坂で家康暗殺の騒ぎが持ち上がりました。すると、その首謀者が利長であると決めつけたのです。全く身に覚えのない利長は、思わぬ窮地に追い込まれてしまいました。この時、家臣たちは次々に嘆いたと言われています。実は、利長は父の利家や次の当主・利常に比べて器量が劣るとみられてきました。しかし、前田家の記録を研究した磯田道史さんは利長を高く評価しています。

 

利家・利常に比べると本人の才能はそれほど高いとは今も言われていません。しかし、目鑑(めがね)があると言われています。これは決断・判断力の高い武将です。徳川と戦って勝てないことを自覚したうえで、どのように前田家を生き残らせていけばいいかと考えるわけですね。

(国際日本文化研究センター准教授 磯田道史さん)

 

この時も利長の判断力はいかんなく発揮されました。まず、最悪の場合にそなえて新たな守りをほどこしました。長さ2.9km、金沢城下をぐるりと囲む惣構を1か月で築きました。一方で利長は3回にわたって家康に使者を送り、粘り強く弁明につとめました。その利長に家康はさらなる無理難題をふっかけました。

 

身の証を立てたいと申すならそなたの母を江戸へ連れてまいれ

「杉本義隣覚書」より

 

さすがの利長も苦悩しました。家のため母まつを差し出すか、強大な家康に戦いを挑むか。利長が下した決断は第三の道でした。まずは要求通り、まつを江戸に送り、家康の孫娘・珠姫を前田家へ輿入れさせる約束をとりつけたのです。いわば人質交換。さらに徳川と親戚になることで前田家の立場も強化できるという逆転の妙案でした。江戸へ向かう日、まつは利長に伝言を残しました。

 

侍は家こそ大事。母のことで家をつぶしてはなりません。人質としての覚悟はできています。いざとなったら私を捨てなさい。

「桑華字苑」より

 

1600年6月、まつが江戸に着くと家康は和解におうじました。利長の決断力が当面の危機をからくも防いだのです。

 

しかし、3か月が過ぎたころ、さらなる困難が襲いました。家康率いる東軍と石田三成を中心とする西軍が雌雄を決した関ヶ原の戦いです。決戦の前、前田家は真っ二つに割れていました。どちらに味方しても家臣たちが分裂するという難しい決断を迫られました。このとき利長が導き出した答えは、またも第三の道でした。

 

関ヶ原の戦いの1か月前、利長は2万5000の大軍を率いて出陣しました。途中、小さな戦をしながら9日後には越前に達しました。このまま合戦に加わると思いきや、金沢に引き返したのです。再び金沢を出て着いたのは戦いが終わって1週間後のことでした。

 

わざと引き返すわけですよね。ゆっくり動いてサボタージュに近い動きをする。つまり、徳川とは争わない、しかし徳川を過剰に得もさせないという動き。微妙なバランスの上に自分の外交方針を作る。釣り合いの外交の名手だったと言ってもいい。

(国際日本文化研究センター准教授 磯田道史さん)

 

実は家康は大喜びでした。前田の大軍が敵にならないだけでも十分だったからです。その証拠に合戦後、家康は前田家の領地を120万石に増やしました。類まれな決断力で見事難局を乗り切った2代・利長。前田家はついに百万石となったのです。

 

しかし、その後も家康は前田家を強く警戒し続けました。息のかかった者を前田家に送り込みスパイをさせたり、大きな工事を命じて多額の出費をしいたり、前田家の力をそぐ企みを続きました。家康は今も前田家滅亡を狙っていると悟った利長は弟の猿千代をよびました。利長は猿千代を跡継ぎと決め、家康の孫娘と結婚させ、早々に当主の座を譲ったのです。

 

9年後、利常の成長を見届けた利長は最後の手を打ったと言われています。前田家の未来を確かなものとするには自分は邪魔だと毒を飲み自ら死を早めたと伝えられています。

利長様の守成のご功績はならぶものがない

「懐恵夜話」より

守成とは、初代が築いたものを2代目が受け継ぎ守ること。厳しい綱渡りを続け、最後にはその身すら捧げて家を守った前田利長。加賀百万石の運命のバトンは確かに渡されました。

 

3代 利常 百万石で美を極めよ

天下泰平と言われた江戸時代ですが、全国の大名たちはいつ徳川幕府に潰されるか戦々恐々としていました。例えば、広島50万石の大大名・福島正則は城を修理しただけで所領を没収されました。徳川の世に多くの大名が涙をのみました。

 

1631年、3代目の当主となった利常にも大きな危機が迫っていました。加賀藩に謀反の動きありと幕府が疑いの目を向けてきたのです。家臣たちは慌てましたが利常は違いました。利常はかぶき者。初代・利家によく似た豪胆な人物でした。すぐさま将軍のいる江戸に乗り込み疑いを晴らそうとしたのです。しかし、このチャンスに前田家を取り潰したい幕府は素知らぬフリ。利常は奇策をくりだしました。

 

まず江戸中の植木や庭石を買いあさり、目立つように加賀藩の屋敷へ運ばせました。そして、歌を大声で歌わせながら庭を大工事。前田家の騒ぎは町中の噂になりました。幕府も無視できなくなり、説明する者を江戸城によこすよう命じてきました。使者にたった家臣は利常から言われた通りに述べました。

我々が静まり返っていてはよからぬことをうわさされます。大工や職人をあまた出入りさせれば世の人々も安心いたしましょう。

「三壺聞書」より

これには幕府も納得せざるおえませんでした。さらに使者は謀反についても弁明。疑いは晴れました。とはいえ、いつまた幕府に言いがかりをつけられるか分かりません。そこで金沢に戻った利常はまた奇抜なアイディアを打ち出しました。利常は加賀百万石を守るために美術工芸を極めることが大切だと考えたのです。

 

そこで活用したのが御細工所と呼ばれた藩の工房。もともとは鎧などを修理する部署でしたが、京や江戸から名工を招き工芸品を作る拠点としたのです。御細工所では超絶技巧を駆使した名品が次々と生み出されました。時に将軍にも献上されたと言われています。

 

加賀百万石は前田家3代の必死の戦いがあったからこそ、徳川260年の世に繁栄し続けることができたのです。

 

美への強い想いはその後も受け継がれました。加賀友禅、金沢漆器、九谷焼。現代の金沢を彩るいくつも伝統工芸が生まれ、全国でも屈指の文化が花開いたのです。初代・前田利家の遺言状にはこんな一節があります。

武道のみを本道とするな。文武二道の侍となるよう努めよ。

加賀百万石の知恵は息ながく今なお受け継がれています。

 

「歴史秘話ヒストリア」
百万石サバイバル!加賀前田家・3人の英雄たち



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