スティーブン・ホーキング博士の結婚と研究|世界まる見え!

スティーブン・ホーキングは1942年、両親共にオックスフォード大学卒のエリート一家に生まれました。子供の頃、クラスメイトにつけられたあだ名は「アインシュタイン」だったと言います。

 

周囲と比べ桁外れの知力を持ち合わせていた彼は、数学の先生が教科書から宿題を出すと、問題を解く代わりに教科書の全ての間違いを修正して提出したと言います。

 

1959年、17歳でオックスフォード大学物理学科に入学。大学ではボートクラブに入り、毎日パーティーをして遊んでいました。大学を主席で卒業すると、20歳でケンブリッジ大学の大学院に進学。そこで当時、科学界最大の争点「宇宙の始まり」について研究を始めました。

 

難病で余命2年の宣告

しかし、体に異変が起こり精密検査を受けました。運動ニューロン疾患(筋萎縮性側索硬化症)であることが分かりました。運動ニューロン疾患とは、手足や口など体の筋肉を動かす神経が障害を受ける難病です。徐々に体が動かなくなり最悪の場合、呼吸不全で死に至ります。21歳のホーキング博士は余命2年と宣告されました。

 

研究していたことも全て無駄になるのではと自暴自棄になったと言います。

 

しかし、そんなホーキング博士を絶望から救ってくれたのがジェーン・ワイルドとの出会いでした。ホーキング博士は彼女と恋に落ち、生きる望みとなりました。

 

そんなホーキング博士が生計を立てるには、物理の道しかありませんでした。とにかく研究に没頭し、宇宙はビッグバンと呼ばれる大爆発によって始まったという説にたどり着きました。それまで、宇宙がどのように始まったかについては誰も解明できずにいました。

 

ホーキング博士は、研究を続ける中で大学から奨励金をもらうことができジェーンと結婚。ハネムーンはニューヨーク州にある大学の物理学会議だったと言います。2人は子宝にも恵まれ、余命の2年も過ぎていました。

 

大学院で博士号を取得したホーキング博士は、宇宙の研究を続けながらケンブリッジ大学で学生たちに物理学を教えることに。その頃になるとホーキング博士は立つことができなくなり、車椅子生活を余儀なくされました。

 

ビッグバン宇宙論

体がどんどん衰弱する一方で、ついにビッグバン宇宙論の理論を組み立てることに成功。それは多くの科学者を納得させるもので、やがてホーキング博士の理論が科学界の定説になっていきました。

 

ホーキング博士は、ローマ法王から賞をもらうなど次々に世界的な賞を受賞。32歳にして天才物理学者の名を欲しいままにしました。

 

本の執筆

しかし、病気はさらに進行し手がほとんど動かなくなり、文字や計算式を書くことも出来なくなってしまいました。時間はほとんど残されていないと思ったホーキング博士は、宇宙の始まりについての研究を本に残そうと決意しました。

 

43歳の時、肺に菌が入りそれがもとで肺炎に。絶望的な状況に医師はジェーンに生命維持装置のスイッチを切ることを提案。しかし、ジェーンは拒否しました。

 

そして、数週間に渡る集中治療の末なんとか一命をとりとめました。しかし、手術で喉を切開したため話すことは完全にできなくなってしまいました。さらに、呼吸も自力で出来なくなり常に人工呼吸器に繋がれ24時間の看護が必要になりました。もはや本を書き上げることなど不可能だと誰もが思っていました。

 

しかし、ホーキング博士はわずかに動く手でマウスを握り執筆を再開。そして数ヵ月後、驚くような速さで書き上げたのが「ホーキング、宇宙を語る」です。本は世界40カ国で翻訳され、発行部数は1000万部以上となりました。

 

離婚

ホーキング博士は、研究以外にも様々な事にチャレンジし人生を謳歌していきました。人気SFドラマ「スター・トレック」には本人役で出演したり、俳優ジム・キャリーが出演するバラエティ番組にゲスト出演したりするように。ユーモア溢れるトークと陽気な姿がお茶の間で人気になりました。

 

しかし、マスコミはホーキング博士の病気や家族の事なども調べ始めました。家族は注目を浴びることにストレスを感じるようになり、ジェーンとホーキング博士は離婚しました。

 

1995年、53歳になったホーキング博士は看護師のエレインと2度目の結婚をしました。しかし、2人目の妻エレインとも11年後に離婚。今は周りの人に手伝ってもらいながら生活しています。

 

「世界まる見え!テレビ特捜部」
スティーブン・ホーキング博士の結婚と研究

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