サン・サーンスの「動物の謝肉祭」|ららら♪クラシック

皮肉の祭り?「謝肉祭」

全部で14の小さな曲が集まってできた組曲「動物の謝肉祭」は、ライオンやカメ、ゾウ、白鳥などのお馴染みの動物たちが音楽で描かれています。

謝肉祭とは「カーニバル」のこと。仮装したり仮面をかぶったりして大騒ぎするお祭りです。そんなカーニバルに欠かせないのが皮肉。仮面をかぶって身分を隠し、日頃は言えない不平不満を皮肉にしてぶちまけるお祭りでもあるのです。

皮肉はカーニバルにとってはとても大きな要素で、カーニバルの期間にうっぷん、皮肉を言ったりして発散することによって気持ちを新たにして新しい結びつきをして春を迎える。

(東京電機大学名誉教授 勝又洋子)

そんなカーニバルを題材にした「動物の謝肉祭」にも皮肉がたっぷり込められているのです。

第4曲の「かめ」は、有名なオペレッタ「天国と地獄」をパロディーにしています。「天国と地獄」をゆっくり演奏すると「かめ」になってしまうのです。

オペレッタはオペラの堕落した娘である。

(サン・サーンス)

テンポが速いばかりで芸術性のない、当時流行のオペレッタを皮肉ったと言われています。

他にもベルリオーズ、メンデルスゾーン、ロッシーニなどの曲がパロディーにされています。サン・サーンスはカーニバルの名を借りて、聴衆や先輩作曲家たちに皮肉を浴びせたのです。

過去の作品に拘泥しているのでなくて、新しい音楽の時間を作っていくということが新たな音楽文化を切り開いていくとサン・サーンスは思っていたかもしれない。

(東京電機大学名誉教授 勝又洋子)

皮肉屋サン・サーンス

多くの作曲家に影響を与え、近代フランス音楽の基礎をきずいたサン・サーンス。交響曲やオペラなど数多くの傑作を残した大作曲家です。しかし、当時の音楽業界からは評価されていませんでした。

カミーユ・サン=サーンス

サン・サーンスは誤解された作曲家ですね。あれほどの名作を書きながら音楽史家の書き方が非常に冷たいんですよね。評価していないというかね。音楽の歴史の中でここまで徹底的に嫌われた音楽家はいない。

(桐朋学園大学教授 西原稔)

ここまで嫌われてしまった原因は性格にありました。ついつい一言多い皮肉屋だったのです。

ある日、病気だった弟子のフォーレから手紙が来ました。

「治ったので会える日を楽しみにしています。」

本心では弟子の回復を喜んだサン・サーンス。しかし、照れ隠しなのか返事の書き出しは「不愉快なわからず屋へ」誰に対してもこんな余計な一言を言ってしまうサン・サーンス。友人たちは次第に愛想を尽かし離れていってしまいました。

50歳の時、サン・サーンスはまたも大失敗をしてしまいました。当時ヨーロッパ中で大人気だったワーグナーについてこう書いてしまったのです。

私はワーグナーの作品をその奇妙な面は別にしてことのほか深く賛美している。

この一言がワーグナーファンの猛反発を招いてしまいました。

翌年、サン・サーンスはドイツ中をまわる長い演奏旅行に出ました。ところが、ドイツの誇りワーグナーを奇妙と言われた観客は大ブーイング。予定していた演奏会は次々とキャンセル。度重なる失言により音楽業界からすっかり嫌われてしまったのです。

サン・サーンスは自分とそりの合わない人たちを動物に見立て皮肉たっぷりの曲を書き上げました。こうして完成したのが「動物の謝肉祭」なのです。

その年のカーニバル、友人の家のパーティーでサン・サーンス自らピアノを弾いてこの曲を初演。批評家もいない仲間内だけの演奏会。誰はばかることなく皮肉を音楽にしてぶちまけたのです。

(作曲は)1886年ですよね。まだフランスの近代的な印象派の音楽が出てくる前ですよね。ドイツではブラームス、ロマン派の真っ盛りです。その中でロマン派を完全に脱却して新しい時代を予感させるような極めて洗練された傑作が生まれたと思います。

(桐朋学園大学教授 西原稔)

しかし、サン・サーンスは批判を恐れ公の場所での演奏も出版も許しませんでした。楽譜が出版されたのは作曲から30年以上も経った、彼の死後のことでした。

1886年の時点でみんなが聞いたらびっくりしたと思いますよ。本当に残念でしたね。それも皮肉。

(桐朋学園大学教授 西原稔)

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