第9集「独裁者 3人の狂気」|映像の世紀プレミアム

ファシズムを生んだ男 ベニート・ムッソリーニ

イタリアのベニート・ムッソリーニはリーダーとしての強さ、親しみやすい人間性を映像によってアピールした新しいタイプの政治家でした。ムッソリーニが掲げたのは、かつてのローマ帝国の威光を取り戻す強いイタリア。国民は救世主としてムッソリーニに未来を託しました。

 

20世紀を揺るがすファシズムは1920年代前半、イタリアのミラノで生まれました。工業の街ミラノは、当時100万近い人口を要するイタリア経済の中心地でした。

 

ミラノに現れたのが黒いシャツを着た強面の男たち。黒シャツ隊と呼ばれました。黒シャツ隊はムッソリーニが作ったファシスト党の武装組織でした。

 

ファシストとは、イタリア語で「結束する者」を意味します。一人のリーダーのもとに国民が結束し服従することで、秩序ある強い国を築こうと呼びかけました。

 

1921年に設立されたファシスト党は1年で25万もの党員を集めました。1922年10月、数万の黒シャツ隊が武器を手に首都ローマに向けてデモ行進をしました。政権を譲り渡すことを求め起こされたものでした。この行進は後に「ローマ進軍」と呼ばれました。

 

国民に満足な政治を与えてこなかった臆病かつ無力な政界に対し、我々は軍を進める。神よ、偉大な祖国のために尽くそうとたぎる情熱を見守りたまえ!全国の諸君へ、その力を発揚せよ!我々は断じて勝たねばならない。イタリア万歳!

(ムッソリーニの檄文より)

 

背景にあったのは、第一次世界大戦の直後からイタリアを襲った深刻な経済不況でした。各地で労働者による暴動やストライキが頻発。議会は有効な政策を打ち出せず、国民の間に不満が高まっていました。

 

ムッソリーニに期待を寄せたのがイタリア国王エマヌエーレ3世です。ムッソリーニは、国王からの親任を後ろ盾に首相に任命されました。

 

ファシズムは多数決に基づく民主主義に反対する。むしろ、ただひとりの人間の意志が遂行される政治を理想とする。国家とは個人の総和ではない。国家を離れていかなる個人もない。国民は国家によって創造されるのである。

(ムッソリーニの言葉より)

 

ムッソリーニは、黒シャツ隊の暴力をちらつかせて選挙法を有利に改正し、過半数の議席を獲得すると正式に独裁を宣言しました。

 

ムッソリーニにはインテリで努力家という一面もありました。裕福な農家に生まれ、高等教育を受け師範学校を首席で卒業。妻と子の待つ家に帰っても新聞や書物を読みふけっていたと言います。

 

ムッソリーニは、議会政治が解決できなかった問題に精力的に取り組んでいきました。その一つが食料の増産でした。ムッソリーニはことあるごとに脱ぎ、その意気込みを肉体で表しました。

 

この頃のイタリアでは小麦の生産が人口の増加に追い付かず、消費の多くを輸入に頼っていました。そのため、パンの価格が不安定となり貧しい労働者の生活を圧迫していました。ムッソリーニは強権を発動して、干拓や植民を推し進め農地を大幅に拡大。収穫量は5年間で1.5倍に増え、人々の生活は大きく改善しました。また、労働者に職を与えるためにローマ市の大改造に着手しました。

 

ムッソリーニが掲げたのは、イタリア人は古代ローマ帝国の末裔であるという物語。ローマ皇帝の石像を整備し、コロッセオを中心に街を作り替え、現在の観光都市ローマの礎を築きました。

 

しかし、こうした独裁政治は強い反発も招きました。発射された銃弾が鼻先をかすめました。さらに、5カ月後ムッソリーニはまたも命を狙われました。その直後、ローマ市民の前に現れたムッソリーニは、暗殺の恐怖に怯まない決意を示しました。

 

私の意志が妨げられることはない!諸君の情熱、そして諸君の犠牲精神が損なわれることもない!

(ベニート・ムッソリーニ)

 

イタリアに活気を取り戻した独裁者を人々は「ドゥーチェ(=統帥)」と呼び熱烈に支持しました。

 

ムッソリーニのもとには20万通を超えるファンレターが届いたと言います。その大部分が女性からでした。

 

私の命はあなたのものです。あなたの胸に耳を押し当て、あなたの大きな心臓の鼓動が打っているのを聞きたいと切に願います。ドゥーチェ、偉大なドゥーチェ、私たちの命、私たちの希望、わたしたちの栄光。イタリアの大地はあなたの偉大で善良かつ誠実な血で彩られた!ドゥーチェ万歳!

(14歳の少女からの手紙)

 

この熱烈なファンレターを送った少女の名はクララ・ペタッチ。成人後にムッソリーニの愛人となり、生涯を彼に捧げました。

 

この頃、ムッソリーニはどうやれば独裁者は国民に愛されるのかと記者に問われ、こう答えています。

 

大衆に愛される独裁者であるためには人々に恐れられ敬われている必要がある。大衆は強い男を愛する。大衆は女性に似ている。

(ベニート・ムッソリーニ)

 

世界もまた、民主主義が行き詰りをみせる中でファシズムを好意的にとらえていました。

 

ムッソリーニはフランス語、ドイツ語、英語を自在に操る国際人でもありました。後にイギリスの首相として第二次世界大戦を戦うチャーチルは、ムッソリーニと言葉を交わし人柄に魅了された一人です。

 

イタリアのムッソリーニをはじめ権威ある国家主導者たちが弱体にして非効率的、しかも民意を反映していない議会政治にとって代わる日は近い。

(チャーチルの言葉より)

 

そしてもう一人、ムッソリーニに憧れ熱烈なラブコールを送ったのがアドルフ・ヒトラーです。二人の出会いが世界の運命を変えることになりました。

 

ファシズムが生んだモンスター アドルフ・ヒトラー

1923年、34歳のヒトラーはミュンヘンを中心に活動する小さな極右政党ナチスの党首をつとめていました。11月、ヒトラーは政権の転覆を目論み、ミュンヘンで武装蜂起。この前年にムッソリーニが行ったローマ進軍に触発されたものでした。

 

しかし、反乱は鎮圧されヒトラーは投獄されました。権力を握るには大衆の心を掴むしかない。出獄したヒトラーはその方法を探し始めました。手本としたのがムッソリーニでした。

 

ヒトラーはムッソリーニを模倣したスタイルを次々と打ち出しています。ナチスの公式の挨拶としてローマ式敬礼を採用。ナチスの武装組織「突撃隊」は黒シャツ隊がモデルでした。

 

ヒトラーの追い風となったのは1929年の世界恐慌でした。ドイツでは既成の政党が落ち込み、ナチスと共産党が台頭。ヒトラーにとって革命を叫ぶ共産主義は国家を分断する危険思想でした。

 

1933年、ナチスは総選挙で第一党となりヒトラーは首相に就任。共産党に対する弾圧を開始し、党員を次々と逮捕していきました。さらに、突撃隊の暴力をちらつかせ議会を屈服させ、ナチスの一党独裁体制を確立しました。そして、ムッソリーニにならい自らを総統(フューラー)と呼ばせました。

 

1934年、念願叶いヒトラーのイタリア訪問が実現しました。憧れのムッソリーニに初めて会った時、ヒトラーは涙を浮かべていたと言います。ヒトラーは3日間の滞在中、ムッソリーニのカリスマ性に圧倒され続けました。

 

一方のムッソリーニはヒトラーを「学のない成り上がり者」と蔑んでいました。

 

ヒトラーは現実の問題に触れることなく、この私に彼が書いた「我が闘争」を暗唱し続けた。それはまるで壊れたレコードプレーヤーのようだった。あいつは道化師だ。

(ムッソリーニの言葉より)

 

ヒトラーが国民に求めたのは忠誠心。そのために目をつけたのが子供でした。国家への服従を意味するローマ式敬礼を教師と子どもの挨拶として全国の学校に導入しました。

 

1936年にはヒトラー・ユーゲント法を制定。ドイツの全青少年がナチスの下部組織ヒトラー・ユーゲントに加入することを義務付けました。

 

僕たちは総統と国家のために戦い、殺し、必要とあらば死ぬ覚悟はできていました。父や母は今にも戦争が起こりそうな状況を憂いていましたが、僕たちはヒトラー・ユーゲントの教え、すなわち戦争は人類にとって必要な浄化のプロセスなのだと信じていたのです。父や母は、単にひどく時代遅れの愚かな人間としか思えませんでした。

(ヒトラー・ユーゲント団員の回想)

 

共産主義が生んだ独裁者スターリン

スターリンは共産党による一党支配が生んだ独裁者でした。レーニン亡き後のソビエトの主導者の座を狙っていたスターリンは、最大のライバルをレーニンの葬儀に招きませんでした。その男とはトロツキー。ロシア革命後、軍の指揮官として反対勢力との内戦を戦いぬいたレーニンと並ぶ英雄でした。そのトロツキーより1歳年上のスターリンは、金や物資の調達係として影で革命を支えるのが役割でした。

 

レーニンはトロツキーの方を信頼していました。レーニンは亡くなる直前に残した遺書の中で、自分の後継者としてのスターリンの資質に疑問を投げかけています。

 

スターリンは粗暴すぎる。この欠点は個人的に付き合う分には我慢できるが書記長としては我慢ならないものとなる。スターリンをこの地位から外し、もっと忍耐強く、もっと忠実で同志に対して思いやりがあり彼ほど気まぐれでない人物を書記長に任命するよう同志諸君に提案する。

(レーニンの遺書より)

 

スターリンのつとめる書記長というポストは、ソビエト共産党の人事権を一手に握っていました。スターリンはその権力を利用して、トロツキーに反感を持つ者たちで指導部を固めていきました。

 

そして、革命を妨げる危険分子という濡れ衣を着せて軍の指揮権を奪い、全ての役職を解くことに成功しました。トロツキーは国外退去を命じられ、亡命先のメキシコで暗殺されました。スターリンは、トロツキーをソビエトの歴史からも抹殺していきました。

 

権力を握ったスターリンは共産主義が資本主義よりも優れていくことを証明するため力を注いでいきました。

 

遅れた弱い者を打ち負かす、これが資本主義の狼の法則である。遅れて弱い者は正しくなく、したがって打ち負かし奴隷にして差し支えないと彼らは考える。逆に強い者は正しく、したがって用心しなければならないと彼らは考える。我々は断じて打ち負かされることを欲しない。

(スターリンの言葉より)

 

スターリンが国作りの根幹に位置付けたのが農業でした。当時、ソビエトの一部だったウクライナなどの穀倉地帯では、農民たちの土地が国有化され集団農場へ変えられていきました。スターリンの狙いは農業の生産性を上げて輸出を増やし、そこで得た外貨を重工業につぎ込むことにありました。

 

スターリンは5年の間に工業生産を2倍以上に高めるという目標を掲げていました。

 

スターリンの集団化政策は、農民たちの猛烈な反発を招いていました。スターリンは彼らに「人民の敵」というレッテルを貼り、強制収容所へと送っていました。全国の収容所に送られたのは1500万人。

 

極寒の中、動きを止めるのは危険だった。私はいつも足の指を動かしたり、手の指をにぎりしめてこぶしを作ったりした。用具の金属に素手で触れると皮膚がはがれるおそれがあった。雪の上にしゃがんだりすれば、そのまま永遠に雪に埋もれてしまいかねなかった。

(強制労働者の回想より)

 

農民たちの犠牲の上にソビエト経済は成長を遂げていきました。外国から訪れた人々の目にはソビエトこそが豊かで平等な理想の社会と映りました。バーナード・ショーもソビエトを讃えた一人でした。

 

アメリカ国民のみなさん、こんにちは。私をロシアマニアと呼んでバカにしてきたみなさん、こんにちは。もはや、資本主義のアメリカよりも共産主義のソビエトの方が優れていることは明らかとなりました。今やこちらの人々はアメリカを見下しています。ふたつの国の立場は逆転してしまったのです。

(バーナード・ショー)

 

しかし、実際にはスターリンの国作りは見せかけのものでした。1932年、ウクライナは深刻な不作に襲われ、割り当てられた小麦を治めるのが困難という訴えがモスクワに届いていました。しかし、スターリンが命じたのは情け容赦ない徴発でした。農民たちは自分たちのなけなしの食糧さえも輸出用に奪われていきました。

 

本物の飢餓がやってきた。飢えで顔や足や腹がふくらんだ。なんでも食べた。ドブネズミ、アリ、ミミズ。革(製品)を切り刻みふやかして食べた。草が生えてくると、その根まで掘り出し食べた。なんでも食べた。

(ウクライナの農民の回想より)

 

ウクライナだけで300万を超える農民が餓死していきました。彼らは最後まで村を離れることを許されず、国民にもこの事実は隠され続けました。

 

この頃、スターリンの家庭生活も破綻の危機に瀕していました。スターリンには革命運動の最中に知り合い結婚したナジェジダという妻がいました。熱心な共産党員だったネジェジダは、夫の無慈悲な国家運営の真相を知りなじりました。

 

「あなたはロシアの全人民を苦しめている」

 

そして、ナジェジダはピストルで心臓を撃ち抜き、命を絶ちました。抗議の自殺と言われています。

 

父は母の自殺にショックを受け怒りたけっていた。棺の傍らに歩み寄ったかと思うと、いきなりくるりと背を向けて歩み去り二度と戻ってこなかった。

(スターリンの娘の回想より)

 

スターリンの溺愛を受けて育った娘のスベトラーナは、母の死を境に父の猜疑心がさらに膨らんでいくのを感じていました。

 

父はいつも母を最も近しい忠実な友とみなしてきた。だから、その母の死を彼は裏切りと受け取ったのである。母の死は父にとって恐ろしい衝撃となり近しい人々への信頼を根こそぎ洗い流してしまったのだ。こうして彼は冷酷になっていった。

(スベトラーナの回想より)

 

妻の死の2年後、スターリンを追い詰める決定的な事件が起こりました。それは、共産党大会でのことでした。選挙権を持つ代議員1059人のうち300人近くがスターリンに反対票を投じたのです。投票は無記名で行われたため、スターリンは強硬手段に出ました。この場にいた代議員の半数近くを処刑したのです。

 

粛清の理由は様々でした。反革命分子、外国のスパイ。しかし、そのほとんどが無実の罪でした。スターリンは恐怖によって人々を操り、支配していく政策をおしすすめていきました。

 

粛清の嵐は全国に広がり、対象は共産党員から軍人、知識人、一般市民まで450万人におよびました。

 

私は暗い監獄の中から助けを求めています。どうかこの絶望の叫びに耳を塞がないでください。私のエネルギーは消え、終末が近づいています。祖国の卑劣な裏切者という烙印を押されて牢獄で死ぬ。果てしない苦悩と悲哀が私の心に満ちあふれています。間違いだ!間違っている!こんな残忍で取り返しのつかぬ不正が許されるはずがありません。

(処刑された共産党員の手紙)

 

その頃、ヨーロッパの西では2人の独裁者が急速に距離を縮めていました。1937年9月、かつて道化師とヒトラーを嘲っていたムッソリーニがベルリンを訪問。国をあげての歓迎を受けたムッソリーニはドイツ語で聴衆に語り掛けました。

 

わがイタリアがファシズム政権下の15年間で生まれ変わったように、ドイツにも革命的な変化が起きている。われら両国民は多くの共通した価値観を持っている。ファシズムには常に誠実さを最も大切にするという美徳がある。私もまたこの美徳を至上のものとして考えている。そして、親愛なる友のためには最後までその行進を共にするだろう。(ベニート・ムッソリーニ)

 

「映像の世紀プレミアム」
第9集「独裁者 3人の狂気」

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