皇帝ネロの捜査ファイル 暴君は真実か?|地球ドラマチック

かつてローマの都を焼き払い、歴史上まれにみる暴君と言われた人物がいました。ローマ帝国 第5代皇帝ネロです。その名前は後世、極悪非道を意味するものとなりました。

ネロは己の野望のため、実の母と妻、義理の弟を殺害。キリスト教徒を迫害し、退廃的な生活に耽ったというのが歴史の下した判断です。

しかし今、最新の科学と新発見の遺物がネロの生涯に異なる光を当てようとしています。

暴君は真実か?

犯罪心理学者トマス・ミュラーは、ネロが犯人だとされる一連の事件について情報を検証し事実を突き止めようとしています。

実はネロは歴史の被害者なのかもしれません。

(犯罪心理学者トマス・ミュラー)

新皇帝誕生

西暦54年、16歳のネロと母親のアグリッピナは当時のローマ皇帝のもとに駆け付けました。皇帝クラウディウスは死の淵にありました。そばには皇帝の前妻の息子で13歳のブリタンニクスがいました。3つ年上のネロはクラウディウスとアグリッピナの再婚後、皇帝の養子になっていました。

クラウディウスの死後は、ネロやブリタンニクスが次の皇帝となります。毒物を食べた恐れのあるクラウディウスは間もなく息絶えました。

野心家の母親アグリッピナは、息子を皇帝の座につける野望を抱いていました。そのため、前妻の息子ブリタンニクスが幼いうちに夫クラウディウスを亡き者にしたかったのです。

ローマ帝国では敵を力で排除することは日常茶飯事でした。多くの場合、権力は民主的手段によってではなく暴力や暗殺によって奪うものだったのです。

(古代史学者マルティン・ツィマーマン)

アグリッピナは、夫に毒キノコを食べさせて殺したと言われています。こうしてクラウディウスの実の息子ではないネロが16歳で皇帝になりました。

アグリッピナは自分の持てる力を十分に理解し、どんなチャンスも目ざとく利用するような女性でした。夫を殺した確証はありませんが、人々は手を下したのはアグリッピナだと噂しました。

(古代史学者マルティン・ツィマーマン)

クラウディウス暗殺の疑惑は、皇帝ネロの治世にはじめから影を落としました。

そもそもの疑問はネロが暴君と呼ばれるようになった経緯です。誰が彼を極悪非道だと述べたのでしょうか?

(犯罪心理学者トマス・ミュラー)

古代ローマの歴史家3人がネロの生涯を書き残しています。タキトゥス、スエトニウス、カッシウス・ディオです。3人はいずれもネロが死んだ時には幼い子供か、まだ生まれてもいませんでした。

やがて、この3人はネロが犯したとされる悪事についてそれぞれの書物に表しました。暴君ネロのイメージをうちたてたのです。しかし、3人が残した記述には異なる点もあります。

犯罪心理学の専門家として言えば、人間は自分が見たいものしか見ない、そして自分が伝えたいことしか伝えないのです。3人の歴史家はみなネロを直接知りません。彼らは聞いたりした読んだりして得た知識をもとに自分にとって関心のある要素のみを強調したのです。

(犯罪心理学者トマス・ミュラー)

弟を毒殺?

前皇帝クラウディウスの息子ブリタンニクスは、病弱で父親が死んだ時は13歳でした。それでも、若き皇帝ネロはブリタンニクスを警戒しました。

西暦55年、宮殿で晩餐会が開かれていました。テーブルには豪華な料理が並び、招かれた人々は好きなものを選びました。ブリタンニクスもいくつか選んで席につきました。そして、ブリタンニクスは暗殺されました。暗殺犯はネロ、凶器は強力な毒とされました。

とはいえ、毒殺は簡単にはできません。位の高い人物の食事は食べる前に毒味されるからです。

タキトゥスによれば、ネロは食べ物ではなく飲み物に毒を盛りました。しかし、飲み物も毒味されます。そこでまず毒の入っていない熱い飲み物を注がせました。ブリタンニクスは熱すぎて飲めません。冷やすために水が注がれました。その水に毒が入っていたのです。水は毒味されませんでした。

3人の歴史家はブリタンニクスがほぼ即死したと書いています。しかし、毒殺したのは本当にネロなのでしょうか?

毒を用いれば体に痕跡を残すことなく殺害できます。ただし、毒殺は口で言うほど簡単ではありません。例え古代ローマの時代であってもです。ブリタンニクスに盛られた毒は色もニオイもなく、しかも急激に作用するものだったと考えられます。しかし、そのような毒が当時あったのでしょうか?

(犯罪心理学者トマス・ミュラー)

古代、最も強力な毒として知られたのはスズランやトリカブトなどのいくつかの植物でした。古代では植物から毒を抽出する時は刻んで煮ました。しかし、この方法では色やニオイなど他の成分も出てしまいます。

十分な効果があり、しかも無色無臭の毒を作るにはどうすればいいのか。その方法を色々と考えてみましたが、結論としてはネロの時代の技術ではほぼ不可能だったと言うしかありません。

(法医学者ヴォルフガンク・ビカー)

ブリタンニクスは即死したという歴史家たちの記述に疑問が生じます。

植物の毒を口から摂取しても、消化器官から血液中に毒が入るまでに時間がかかります。体に効力が及ぶのはさらにその後です。わずか数秒で死に至るとは考えにくいのです。

(法医学者ヴォルフガンク・ビカー)

毒物による即死という記述は信頼性が揺らいできました。

法医学者の結論は歴史家たちが書いたような強力な毒はなかったというものです。急死の原因は持病のてんかんによる発作だったとも考えられます。でも、人々はネロなら弟を殺しかねないと思い込んだのです。

(犯罪心理学者トマス・ミュラー)

母の死の真相

ネロの母親であるアグリッピナは、皇帝となった息子を操り自らが強大な権力者になることを望んでいました。アグリッピナが野心を隠さなかったことは、当時作られた貨幣にも表れています。

ネロが西暦54年に皇帝の座についた時、最初に発行された硬貨のデザインは実に異例なものでした。そこには、ネロと同じ大きさ同じ目線の高さで母親が描かれていたのです。非常に珍しいことです。アグリッピナは公然と権力を主張し、ネロと母親は対立しました。

最初の硬貨が作られてから数カ月後、2番目の硬貨が発行されました。そこにもアグリッピナの姿がありますが、今度はネロの後ろです。つまり、以前よりも権力が弱まったということです。さらに数カ月後、アグリッピナは硬貨から消えました。息子と対立して権力を失ったことが硬貨のデザインの変かにハッキリ示されています。

(ライン州立博物館 マルクス・ロイター)

16歳で皇帝となったネロは、統治者として心身ともに成長していきました。21歳になるまでの5年間、ネロの統治は順調でした。3人の歴史家もそう記しています。

ネロは市民のための公共浴場市場を作りました。市民は若き皇帝を崇めました。ネロは芸術やスポーツ、科学への関心も深め、壮大な建造物をたてることを望みました。

ある夜、ネロは母親をローマから離れた別荘に呼び寄せました。縺れてしまった親子の絆を取り戻そうとしたのかもしれません。しかし、歴史家の見方は異なります。それはネロが母親を殺すための謀略だったというのです。

ネロはその夜、帰っていくアグリッピナを見送った。間もなく死ぬ母をこれが最後と思って見た時、彼の冷たい心も揺さぶられた。

(タキトゥスの記述より)

アグリッピナはその夜のうちに死ぬはずでした。ネロは手下を使って母親の乗る船に細工を施しました。船室の天井に鉛の板を乗せ、沖合まで進んだとき板が落ちる仕掛けです。アグリッピナは鉛の下敷きとなり圧死するはずでした。

歴史家によると、暗殺の企ては失敗しました。アグリッピナは、海に落ちたものの岸にたどり着き一命をとりとめました。ネロは母親の復讐を恐れ、武装した手下にアグリッピナを殺害させたと記されています。しかし、遺体をネロが自ら確認したかどうかについて歴史家の意見は様々です。

目撃者はいませんでした。アグリッピナが亡くなったことは事実ですが、死の真相は誰にも分かりません。いつの間にか一つの物語が作られ語り継がれてきたのです。それは息子が母親を殺すという実にドラマチックな物語でした。

(古代史学者マルティン・ツィマーマン)

確かなことはアグリッピナがその夜死んだという事実だけです。果たしてネロは実の母を殺せと命じたのでしょうか?それとも母親の死には別の理由があったのでしょうか?母親の死にまつわる噂はネロにとって一生の重荷になりました。

歴史家たちの記述は現代の法廷では客観性のある証拠とはみなされないでしょう。例えアグリッピナを殺したのは息子のネロだと証言しても決め手となる物的証拠は何もないからです。

(犯罪心理学者トマス・ミュラー)

大火は誰の仕業?

西暦64年、ローマでかつてない程の大火事が起こりました。7月18日の夜に起きたローマ大火です。

歴史家スエトニウスとカッシウス・ディオは火を放ったのはネロだと述べています。動機は2つ。1つは新しい宮殿を作るため広大な更地を作り出すこと。もう一つは燃え広がる夜の炎からインスピレーションを得て歌を歌うことです。

しかし、タキトゥスは大火について異なる見方をしています。

当時、ローマはすでに人口が過密する大都市でした。街のほとんどは狭い路地で、人々は通りを肘でかき分けながら進んでいました。土地は極めて貴重だったため建物は密集していましたが、区画整備や防災対策はありませんでした。しかも、丈夫な建物は少なく大半は木でできていました。

夕暮れ時、ローマの中心部から火が出て燃え広がり、火事は9日間続きました。発掘調査によるとこの大火で都の3分の2が被害を受けています。

ローマの木造の建物は夏の暑さで乾ききっていました。7月は熱波に襲われ何週間も雨が降っていませんでした。夕方には人々は何千ものランプや松明をともしました。いったん火が出れば、大部分が木ができている街では、ほとんどなす術がありません。

密集した長屋のような構造、夏の暑さ、熱風があいまって炎は壁伝いに燃え広がります。もはや消火活動などできません。ローマの中心は灰となっていきました。

ネロの住む宮殿も破壊されました。屋根にのぼって炎を眺め、しかも音楽に耽るなど到底不可能だったはずです。

ローマ中が燃える中、ネロが大慌てで宮殿に戻り屋上で歌を歌ったというのは有名な話です。しかし、状況を考えると単なる伝説に過ぎないと言えるでしょう。新しい宮殿を作るための土地が必要なら、ネロにはいくらでも他に手段があったはずです。火事を起こさなくとも強制的に土地を取り上げ建物を壊してしまうことだってできたでしょう。

(ライン州立博物館 マルクス・ロイター)

ネロは大切な美術品も火事で失いました。

歴史的な記述、当時の建築事情、火災によって起こりうる事態など、全てを考え併せてもネロがローマに火を放つ動機は見当たりません。火事は事故だったと考えるのが自然でしょう。

(犯罪心理学者トマス・ミュラー)

改めて検証すると、ローマ大火における皇帝ネロの姿は全くの別人です。

ネロは消火活動を指揮しました。市民を思いやる皇帝として家を失った人々に広場を解放し、必要な食料も確保しました。つまり、災害が起きた時に市民が期待することを全てやってのけたのです。

それは残虐非道な暴君というイメージとはかけ離れています。むしろ、理性的で責任感のある優れた統治者の姿です。

3人の歴史家のうちタキトゥスだけは、ネロの危機管理能力を讃えています。ローマが炎に包まれる中、皇帝は都にとどまり救助活動を指揮し、被災者のもとを訪ねたと。

ネロは都を守ろうとしてできる限りの策を講じました。しかし、燃え広がる大火に対してはもはや焼け石に水でした。火は迷路のような通りの奥まで入り込み、ローマの14地区のうち焼け残ったのは4地区でした。大勢の犠牲者が出た一方、救われた命も多くありました。

都の再建のさい、ネロは防火対策のため建物の低層部分は石造りに、壁は隣と共有しないようにしました。道幅も以前より広げました。

それでも、火事の直後、火事の原因は放火で、その犯人は皇帝ではないかとの噂が広まりました。

放火犯をでっちあげ?

自分に向けられた疑いを晴らすために、ネロはローマ大火の犯人をあげなければなりませんでした。そして、罪をきせるならキリスト教徒がうってつけだと進言する側近がいました。

(古代史学者マルティン・ツィマーマン)

ネロは何百人もの無実のキリスト教徒を虐殺したと言われています。それは、歴史上最初のキリスト教徒迫害でした。そして伝説が生まれました。

いわく狂気のネロ 悪の権化 残虐非道のサディスト

発端はローマ大火でした。深く傷ついた市民は火事がただの事故だったとは納得できませんでした。火事の犯人を追求する民衆の圧力は日ごとに強まりました。ネロはついに新しい宗派に放火の動機があるかもしれないとして責任をかぶせることを決断しました。

大災害の後には責任者を特定しようという声が必ず上がるものです。ローマ大火の時も同じでした。なぜキリスト教徒だったのでしょう?

(犯罪心理学者トマス・ミュラー)

キリスト教徒は自分たちの神のみを信じ、神としてのローマ皇帝を受け入れませんでした。さらに、彼らの独特の儀式や教義はローマ市民にとって受け入れがたいものでした。

ネロは法に従ってキリスト教徒を処罰しました。当時、放火犯は公開で火あぶりとなる決まりでした。残酷な処刑法はかっこうの見世物となりました。ネロがキリスト教徒に下した処罰はそれが全てです。その後の治世でネロがキリスト教徒を迫害したという証拠は見つかっていません

歴史はしばしば修正され誇張され、改竄されてきました。ネロのキリスト教徒迫害もその一つかもしれません。

黄金宮殿の建設

ローマ大火から間もなく、ネロは新たに宮殿を作り黄金宮殿と名付けました。贅を尽くした建物は皇帝の誇大妄想の表れと批判を呼びました。ネロの偉大なる宮殿は、現在はコロッセオ周辺の遺跡の下に埋まっています。黄金宮殿は1480年に偶然発見されました。

天井の高い部屋が広がり、数多くのフレスコ画やおびただしい装飾も残されていました。黄金宮殿の建設によってネロは理想の世界を築き上げました。ローマ帝国の各地から芸術家を呼び寄せ、隅々まで装飾を施しました。

夢の実現には莫大な費用を要しました。貴族からも資金を集めたため、貴族階級との対立が生じました。黄金宮殿はネロの終わりの始まりとなりました。

最高権力者であるネロに反感を覚える者が次第に増えていきました。ネロがあまりに巨大なプロジェクト、すなわち黄金宮殿を建造したからです。それは、ローマの歴史が始まって以来初めてというほど豪華な建造物でした。

(古代史学者マルティン・ツィマーマン)

ローマの中心に建てられた黄金宮殿は、複数の建物からなり広大な庭園や池で囲まれました。屋根は黄金宮殿の名の通り金で覆われました。ローマ帝国の皇帝でネロほど贅沢に暮らした支配者はいません。

大火で消失した街を覆うように建てられた黄金宮殿は維持にも莫大な費用がかかりました。大勢の使用人がネロのために24時間待機しました。時には天井からバラの花びらを降らせたと言われます。

権力の絶頂にあったネロは各地での戦争にも勝利。豪華な広間は富と権力の象徴でした。しかし、際限のない浪費と誇大妄想は周囲の非難をまねき政敵を生みました。それでも、ネロは黄金宮殿を「人間が暮らすのにふさわしい住まい」と述べたと歴史家は記しています。

まともな人間ならあれほど巨大な宮殿を生活するのにちょうど良いとは言わないでしょう。ネロは妄想にとらわれていたのではないでしょうか。

(犯罪心理学者トマス・ミュラー)

ネロは黄金宮殿の真ん中に自らの像を作らせました。高さ30メートルを超える像はローマ中から見えました。人々はネロがもはや常軌を逸っしていると考えました。

ネロは狂気の支配者だったという見方がありますが、そんなことはありませんでした。後世の歴史家たちがそうしたイメージを植え付けましたが、実際に精神を病んでいたわけではなく、ただ当時の政治にそぐわない行動をとったというだけの話です。

愛妻も殺害?

ネロは次第に自分の関心事だけに熱中するようになりました。壮大な宮殿に家族と共に暮らすことを望みました。

ポッパエア・サビナは、美貌と教養をかねそなえた魅惑的な女性でした。西暦65年、ポッパエアは身ごもりましたが、ネロの子を産む前に亡くなりました。

ポッパエア・サビナ

タキトゥスによればポッパエアは、ネロが犯した最も残酷な罪の犠牲者でした。

ポッパエアの死後、目撃者の証言とされるものはありますが物的証拠はありません。新しい発見がネロの罪の真実に光を当てる可能性があります。

(犯罪心理学者トマス・ミュラー)

19世紀末、エジプトのオクシリンコスで古代ローマ時代のパピルスが何百枚も発見されました。文字が書かれていましたが、判読するのは難しく長い間、内容は謎に包まれたままでした。

近年、専門家チームが解読に乗り出しました。記されていた文字は古代ギリシャ語でした。そして文章はネロの死から200年後に書かれていたことが分かりました。

文章は実は詩であることが分かりました。ネロの名前が4回登場する詩です。

(古典学者パウル・シューベルト)

解読の途中で死の床にあったポッパエアに関する記述も見つかりました。

ポッパエアがネロに殺されたことを示す記述はどこにもなかったんです。それどころか、パピルスに記された文章にはポッパエアとネロの夫婦の愛の物語がめんめんと綴られていました。詩の中で彼女は死期が近づいたためになくなく夫の側を離れます。それは他の史料で見られる説とは全く異なるものでした。歴史の通説ではネロが妊娠中のポッパエアの腹を蹴って彼女を殺害したということになっています。しかし、腹を蹴ったという説は私は信用できません。

(古典学者パウル・シューベルト)

ネロが腹を蹴って殺したという説は、歴史家が古い伝承をもとに作り上げた物語にすぎないのかもしれません。

実は人気者だった?

西暦79年、ポンペイは火山の噴火によって街全体が灰に埋まりました。発掘された街並みからネロが市民に愛されていたことを示す証拠が見つかっています。

80個ものらくがきが見つかりました。当時のポンペイに暮らした庶民が書いたものです。街のあちこちに残されていました。ネロの名前が書かれた落書きもありました。しかも、どの落書きにも否定的な内容は一切見当たりません。ですから、これからの落書きは皇帝ネロがいかに人気者だったかを伝えるものだと言えます。

(歴史学者レベッカ・ベネフィール)

落書きの一つは奴隷の身分だったコクタという男性が書いたもので、自分の名前の隣に誇らしげにネロの名を記しています。剣闘士の養成所を卒業した若者たちが書いた落書きもあります。彼らは自分たちを「ネロ養成所出身者」と称し、その印を壁に刻みました。

ネロへの強い支持を表す証拠と言えるでしょう。ポンペイでは剣闘士の試合が10年間禁止され、人々は不満を募らせていました。そんな状況でネロは試合を行っても良いと許可したんです。市民は喜びネロの人気が高まりました。

(歴史学者レベッカ・ベネフィール)

古代ローマでは人気と権力は必ずしも一致しませんでした。ネロは自分や市民の娯楽のために貴族たちの金をつぎ込みました。貴族階級はネロへの反発を強めました。

ネロは人気者でした。自分の過剰な浪費から人々の目をそらすために大衆の欲求を満たし喜ばせる策を講じたからです。

一方、貴族たちはネロとは全く違った価値観を持っていました。当然、ネロのやり方に反対する声が強くなります。結果、両者の対立は深まりました。

破滅への道

西暦66年、ネロは側近を連れギリシャへの長旅に出かけました。オリンピアで祭典を開かせ自ら出場するためでした。ネロは選手、そして演技者として舞台に立つつもりでした。それは当時の常識からかけ離れた行動でした。

ローマ帝国の皇帝には、政治的な役割と果たすべき勤めがあります。力強く勇敢で不死身という古代ローマの価値観を体現する存在でなくてはなりません。

しかし、ネロは違いました。政治への関心を失う一方、ギリシャをこよなく愛しギリシャから税を取ることをやめました。当然、ローマ帝国の税収は減少しました。こうしたやり方や芸術への過剰な関心がついに転落を招くことになりました。

俳優、歌手、音楽家といった人々は古代ローマでは低俗な職業とみなされていました。彼らは低い身分におかれ社会的にも評価されない存在でした。ローマ皇帝がその仲間入りをするなんてその仲間入りをするなんてとんでもないことです。ましてや、自ら舞台に立つなど言語道断でした。

(ライン州立博物館マルクス・ロイター)

各地の貴族や軍隊は反旗をひるがえしました。議会である元老院はネロを国家の敵と宣言し、皇帝の地位を剥奪。死刑を宣告しました。

ネロはローマ近郊の小さな屋敷に逃亡。法によれば牢屋で衣服をはぎ取られ二股の棒で首を挟まれ、むごい仕打ちをうけます。そして、最後は岩の上から突き落とされるのです。屈辱を避ける道はただ一つ。自ら命を絶つことでした。

ネロの最期について、歴史家は辛辣に記しています。スエトニウスによれば、近づく騎馬兵の音と聞いたネロは自害することを決意。しかし、躊躇う素振りを見せたため付き人に何度も促されました。実際にはネロがどのように自害したか知る者はいません。全ては憶測にすぎません。

息を引き取った直後からネロの足跡を抹消する動きが始まりました。そして亡き皇帝を貶めた3人の歴史家たち。実は、彼らは全員貴族階級でした。すなわち、ネロに敵対した勢力だったのです。

THE NERO FILES
UNCOVERING AN ANCIENT CONSPIRACY
(オーストリア/アメリカ/フランス/ドイツ 2017年)

この記事のコメント

  1. にょるやま より:

    まとめてくださりありがとうございます。