地上げ屋と闘った馬渕晴子|爆報!THEフライデー

TBSテレビの「爆報!THEフライデー(ばくほうザフライデー)」あの芸能人は今…事件&被害SPで地上げ屋と闘った馬渕晴子さんについて放送されました。女優・馬渕晴子(まぶちはるこ)さんは1954年に日活にスカウトされ高校3年生で芸能界デビュー。21歳の時にはNHKの専属女優となり、小林千登勢さん、冨士眞奈美さんと共にNHK3人娘として活躍。ドラマ・映画あわせて出演作品は100本以上。優しくも芯の強い母親を数多く演じました。一方、私生活では1960年に俳優・井上孝雄(いのうえたかお)さんと結婚。2人の子宝にも恵まれました。公私共に順風満帆な彼女は1969年に港区赤坂の2DKのマンション(1000万円)を購入しました。しかし、このマンションをめぐり壮絶な地上げ騒動に巻き込まれてしまいました。

 

事件が起きたのは馬渕晴子さんがマンションを購入してから16年経った1985年の夏。日本でバブル景気が幕を開けようとしていた頃、地上げの恐怖は始まりました。ある日、突然見知らぬ中年の男が馬渕晴子さんの家を訪ねてきました。男は家を売って欲しいと言ってきましたが、馬渕晴子さんは家を売る気はなかったので男の要望を丁寧に断りました。しかし数日後の深夜、無言電話がかかってきました。この日を境に3ヶ月間も無言電話が続くように。そんなある日、マンションの住人からマンションが地上げ屋の標的になっていると聞かされました。好景気の影響を受け、地価が高騰。馬渕晴子さんが住んでいた赤坂のマンションの土地400坪も1年で倍に。一坪300万円が700万円になっていたのです。地上げ屋は馬渕晴子さんが住む赤坂の地価がさらに値上がりすると予想し住人を追い出しにかかっていたのです。地上げ屋の目的は住人の部屋を買い取り、マンションを取り壊して更地にし、その土地をより高く転売することでした。連日の無言電話は馬渕晴子さんの家以外にも繰り返しかけられていて、中にはすでに家を手放した住人も。当時の法律ではマンション住人の5分の4以上の賛成を得られれば建物を取り壊すことが出来ました。馬渕晴子さんが住んでいたマンションの部屋数は49戸だったので、39戸が地上げ屋の手に渡った時点で業者の指示に従わねばならず強制退去させられる可能性がありました。

 

嫌がらせの無言電話が始まって半年、地上げ屋に対抗するため住人は「生活と権利と自治を守る会」を結成。馬渕晴子さんは女優をしてきた知名度から周囲に推され会の代表になりました。テレビや新聞などメディアで不当な現状を訴えれば訴えるほど、馬渕晴子さんの身の回りで不審な事が起きるようになりました。深夜の無言電話は脅迫電話に。住人が出て行き無人のはずの隣の部屋から夜中じゅう大音量の音楽が流れてきました。それでも馬渕晴子さんは負けませんでした。エスカレートする嫌がらせに対抗するためマンションの入り口に2台の防犯カメラを設置。夜な夜なマンションに出入りする地上げ業者と思われる不審な人物を特定することが出来たのです。そして馬渕晴子さんを含む住民の有志10人は不動産業者を相手取り、買い占めで精神的不安を受け、生活権を侵害されたとして慰謝料など総額2200万円の支払いを求める訴えを起こしました。するとマスコミは馬渕晴子さんのことを地上げ屋への反撃のシンボルとしてまつりあげました。さらに、この年の流行語大賞では「地上げ」という言葉が不快語追放応援賞を受賞しました。馬渕晴子さんが誰もが恐れる地上げ屋と一歩もひかずに闘い続けた裏には尊敬していた父の存在がありました。元軍人で正義感が強かった父親の影響で、馬渕晴子さんは悪に屈しない強い女性に育ったと言います。しかし、馬渕晴子さんが抵抗すればするほど業者側も徹底抗戦。底の見えない泥沼へとはまっていきました。

 

地上げ被害から1年後、被害は離れて暮らす家族にも及びました。当時25歳だった息子にも脅迫電話がかかってきたと言います。この時、マンションの10戸が地上げ屋の手に渡っていました。嫌がらせを受け引っ越していった部屋に、新しい入居者が次々と現れ、管理組合のメンバーが総入れ替えされました。管理組合が乗っ取られたことで新たな被害が出始めました。月に8万円もの法外な水道代が請求されるようになったのです。当時、このマンションは水道代を住民全体で分割して支払う方法をとっていたため、地上げした全ての部屋で水道の垂れ流しをしていたのです。さらに住人を追い出すために電気を使えなくしてきました。地上げ被害から1年半が経つと、嫌がらせに耐えかねてマンションを明け渡す住人が急増。気づけば28戸が地上げ屋の手に。それでも馬渕晴子さんは信念を曲げず徹底抗戦を続けました。しかし、このせいで女優として築き上げてきた温和で優しいイメージが崩れ、過激女優というレッテルをはられ仕事は激減しました。地上げ被害から約2年で収入はゼロに。さらに地上げ屋との闘いに没頭する中、夫とも別居。しかし地上げ被害に苦しむ住人たちを鼓舞するため馬渕晴子さんは強気の姿勢を崩すことはありませんでした。

 

取り壊し開始まであと8戸にせまった1989年、地上げ屋は新たな手段で住民たちの懐柔作戦にでました。バブル景気が進み赤坂の地価はさらに高騰。なんとバブル前、1坪300万円だったものが6倍の1800万円に。すると業者は購入価格1000万円のマンションに4000万円を提示。中には2億円という価格を提示された住人も。もう地上げ屋に反対する者など、ほとんどいませんでいた。そして地上げ業者の手に全体の7割34戸が渡ってしまいました。原告団の中からも業者側に屈する人が現れ、いつしか原告は馬渕晴子さん一人になってしまいました。それでも彼女は信念を曲げず闘い続けました。しかし地上げ被害から6年、裁判所は業者らの行いは不法行為とは言えないとして訴えは退けられました。ところが敗訴から数ヵ月後、バブルが崩壊。バブル崩壊で最初に影響を受けたのが不動産業界。資金繰りが滞り倒産する企業が続出。そして赤坂の地価も暴落。一坪5000万円に上昇した土地が目も当てられぬ状態に。馬渕晴子さんと裁判を争った会社も不動産事業から撤退。6年に及ぶ地上げ屋との闘いはバブル崩壊という形で終止符が打たれました。そしてマンションを守り抜いた馬渕晴子さんは2012年に亡くなりました。ちなみにマンションは今も現存していて部屋は馬渕晴子さんの死後、家族が大切に所有しています。