憎まれ、そしられ、いじめられ…
始皇帝が生まれたのは邯鄲(かんたん)で、少年時代の名は政(せい)でした。幼い頃の政は、町の人たちから憎まれていました。
政が生まれた紀元前3世紀、中国はいくつもの国が激しく争い合う戦国時代でした。7つの国のうち一番西にあるのが秦です。ところが、後に秦の始皇帝となる政は秦ではなく、趙という国の都・邯鄲で生まれました。それは政の父が秦から邯鄲に送り込まれていたからです。
政の父は、秦の国の王子だったのです。戦国時代、国々は互いの王子を交換して預かっていました。国同士のつながりを保つことで戦争を防ごうと考えたのです。いわば人質です。敵の国ではありましたが、親子三人肩を寄せ合い暮らしていました。
ところが紀元前262年、祖国の秦が趙と戦争を始めたのです。そして、秦の軍隊は政たちが暮らす邯鄲を包囲。中国の歴史書「史記」には「秦は趙の兵士、四十万余りを埋めた」と記されています。邯鄲の町は憎しみに溢れました。
ある日、秦の商人・呂不韋(りょふい)が政の父親を訪ねてきました。そして、秦へ帰って王になるよう誘ってきました。政の父は呂不韋の誘いに乗ることにし、一人で出て行きました。そして6年が過ぎようとしたある日、秦からの迎えが来ました。
政たちは密かに邯鄲の町を抜け出し、秦の都・咸陽(かんよう)へ。父は王になり、全てを賭け父を王にすると約束した呂不韋も側近として仕えていました。
ところが、王となってわずか2年、父が急死してしまいました。このとき、政は13歳。秦の国で政を待っていたのは、戦国の王になるという過酷な運命でした。
周りはすべて敵 絶体絶命の戦い
18歳頃になると、政も戦いに出ていくようになりました。戦に勝って敵の土地を占領し、その土地に秦の民を住まわせるというのが政のやり方でした。しかし、このやり方が思わぬ事態を招きました。
秦に滅ぼされるのではないかと危機感を抱いた他の国々は、密かに計画を練りました。それは5つの国が協力して連合軍を作り、秦に攻め込もうというもの。
紀元前241年、数十万と言われる連合軍が秦の国境を突破し、咸陽の都に迫ろうとしていました。政の頭に浮かんだのは函谷関(かんこくかん)でした。秦の国は周りを険しい山々に囲まれているため、大軍は易々と中に入れません。唯一通れるのが函谷関でした。
当時の函谷関には66メートルもの壁が築かれていました。加えて壁は三重にめぐらされていたと言います。つまり、政の作戦は連合軍に対し負けないこと。函谷関を信じて相手に根負けさせることでした。
函谷関の攻防が始まりました。連合軍は圧倒的な数に加え、様々な武器で攻め込みました。これに対し、秦は弩(ど)という武器で立ち向かいました。60メートル以上の高さから放たれた矢は盾や鎧を射抜くほどのすさまじい威力でした。
函谷関の激戦の最中、各国の精鋭を集めた別動隊がひそかに山を越え、咸陽を狙っていました。気づけば敵は都にわずか半日の距離・蕞にまで迫っていました。政は王宮にいる部隊を蕞に送りました。連合軍は蕞を突破することができなかったと「史記」には記されています。
絶体絶命の危機を乗り越えた若き日の始皇帝ですが、この後さらなる試練がまちかまえていました。
裏切りに次ぐ裏切り その果てに
咸陽から北西へ約50kmのところにある涇水の横を流れるのは、秦の時代に起源のある用水路です。用水路は秦の国に豊かな実りをもたらしました。その由来を記した記念碑には「工事の責任者だった鄭????国という男は敵国のスパイだった」と刻まれています。スパイの狙いは秦に無理やり大工事をさせ、人やお金など戦に使う力を弱めることでした。
政は鄭????国がスパイだと分かっても工事を続けさせました。国を豊かにし今より多くの兵を養おうと考えたからです。背景にはとてつもない野望がありました。それは6つの国全てを滅ぼし、中国全土を秦に統一するというものでした。
しかし、それには一つ問題がありました。長年、側近として秦国を支えてきた呂不韋です。呂不韋は他の6か国のリーダーとして秦は繁栄すべきだと主張したからです。2人は次第に対立。思わぬ形で決着することになりました。
紀元前238年、秦の夜空に彗星があらわれました。彗星は古代中国では不吉の兆しとされていました。
政にとってそれは母にまつわることでした。政の母は何不自由なく後宮で生活していました。しかし、母は密かに愛人を囲っていました。男の名は嫪毐(ろうあい)、子供までもうけていました。嫪毐は偽の王印を作って勝手に兵を集め始めました。
政は一計を案じました。儀式を行うためとし、わずかな兵を連れ咸陽を離れたのです。すると、嫪毐による反乱が起こりました。咸陽の近くで両者は激突。政は隠しておいた精鋭部隊を率いて敵を圧倒しました。嫪毐と政の母は捕えられました。嫪毐は車裂きの刑に処され、母は都を離れることになりました。
実はこの謀反のそもそもの原因は呂不韋にありました。数年前、政の母に嫪毐を引き合わせたのは呂不韋だったのです。
紀元前238年4月、政は成人の儀式をとりおこない秦王の冠をかぶりました。名実ともに少年が王となった瞬間でした。その後、王を待っていたのは戦いの日々でした。他の国々や、かつて自分を虐げた者など、次々と容赦なく滅ぼしていきました。
そして紀元前221年、中国全土を統一。王の上に立つ者という意味で初めて皇帝を名乗ったのです。始皇帝は国ごとにバラバラだった文字や貨幣を統一。また万里の長城を築くなど、いくつもの歴史を刻みました。
中国ではいつの世も業績をたたえられる一方で、その残酷さを非難されてきた始皇帝。その複雑な人物像は、若き日の様々な出来事の積み重ねの果てにあるのかもしれません。
「歴史秘話ヒストリア」
ザ・ヤング始皇帝 少年が乗り越えた3つの試練
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